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X氏ヒストリー~占領期をどう生きたか

第16回
「美空ひばり」

 恒文社21編集部著『憧れのハワイ航路』は、帯に「写真でひもとく日本とハワイの100年」と銘打って、美空ひばりにこう触れています。
「岡晴夫の『憧れのハワイ航路』が敗戦間もない巷に流れたのは一九四八(昭和二十三)年のことだった。この年、『異国の丘』や『湯の町エレジー』『三百五夜』といった抑留の悲哀や抒情を歌い上げる歌がヒットする一方で、『憧れのハワイ航路』は多くの国民に将来くるであろう夢をいち早く配給したのであった。鼻にかかった高温の伸びのある声。リーゼントに白い服。物資欠乏の極に達していたこの時代に岡晴夫が果たした役割は小さくない。

(中略)

 聞くところによるとこの作詞をした石本美由起は、この時にはハワイには行っていなかったという。それもそうだろう。アメリカから許可が出てJALがハワイへ飛ぶのは一九五四(昭和二十九)年のこと。パンナムは飛んでいたが、簡単にビザが下りる時代でもなければドルもない。それにしてもあの真珠湾攻撃から七年経っただけで今度は『憧れ』るのだから日本人のたくまざる臨機応変の才知には改めて驚かされる。
“オカッパル”がハワイ行きの夢を語り始めたこの年、旧来の音楽シーンとは全く異質の歌が機を同じくして登場してきたのであった。
 笠置シヅ子が歌う『東京ブギウギ』である。
 服部良一作曲になるこのブギのリズムはたちまち大流行し、このコンビはハワイまで知れ渡り、やがてハワイ興行でも成功をおさめる。
 その笠置シヅ子のブギを歌って登場してきた天才少女、美空ひばりが大人を驚かせたのも同じ一九四八(昭和の十三)年のことだった。ひばりもまた戦後が生んだ最大のスターとして一九五〇(昭和二十五)年、母喜美枝さん、川田晴久と共に幼くしてハワイの土地を踏む。
 ひばりの可憐な姿と大人顔負けしの歌声は、ハワイの日系人たちをとりこにしたが、宿泊したホテル側ではちょっと閉口したようだ。
 毎朝、ひばり親子はホテルの部屋で、持参したコンロでクサヤを焼いて食べるのが習慣になっていたらしい。ホテルじゅうクサヤの臭気が充満したことは言うまでもない。
 いずれにせよ戦後日本のハワイ行きは、こうした新しい芸能人たちから始まったといってよい。」

 そして写真のキャプションに、「1950(昭和25)年5月、12歳の美空ひばりが(パンナムで)ホノルル空港に降りたった。ハワイ公演は大人たちを驚嘆させた。……ヨーロッパ戦線で勇名を馳せた日系第百大隊会館建設基金ショーのための公演が目的だった」とある。その後、ひばり一行はアメリカ本土にまで足を延ばしています。

 最後に、映像です。BS朝日の「昭和偉人伝」の美空ひばりの巻には、彼女の一生がドキュメントされています。

 ところで、以前には、「ひばり13歳アメリカで唄う」がユーチューブにアップされていましたが、残念ながら、現在、削除されてしまったようです。誰か、紹介いただける方がおられたら、アップしていただければうれしいです。