GHQ CLUB. あの日あなたは何をしていましたか? あなたにとってGHQとは?

HOME > 地方占領期調査報告 > 地方占領期調査報告第18回「相模原市」

地方占領期調査報告

INVESTIGATION REPORT
地方占領期調査報告第18回
「相模原市」

地方占領期調査報告第18回「相模原市」

「あの頃を思うシリーズ」に、「相模原に進駐してきた米軍」という記事がアップされている。

 

「米陸軍に第一騎兵師団という有名な部隊がある。この師団の歴史は古く、南北戦争当時からの伝統ある部隊だそうで、ジョン・フォードの傑作『黄色いリボン』に出てくる騎兵隊も多分そうではないかと思う。無論現代では馬は使わず、車輌や戦車で装備されて太平洋戦線でも常時第一線で活躍してきた。さきごろの新聞紙上にも名が載っていたから、ベトナム戦線でもあいかわらず最前線にいるらしい。また最近私は横田基地の九一番格納庫(ここは軍人用のターミナルに使われでいる)でMAC機を待つ米兵士の一団に、黄色地の逆三角の中に黒い馬首と太い斜線をデザインした第一騎兵師団の隊章を肩につけた将兵を見かけ、旧友に会ったようななつかしさを覚えた。
 マツカーサー連合軍総司令官が厚木飛行場に降り立ったのは二十年の八月三十日だったが、同じ頃に相模湾に上陸した主力部隊第八軍の指揮下に第一騎兵師団があった。マ元帥はただちに横浜市内にあるニューグランドホ一ルに設けられた総司令部に入り、すぐ市内の焼け残った建物の接収を始めた。横浜の中心部はみるみる緑色の戦闘服姿の米兵であふれ、赤や青の派手な隊章に市民は目を見張った。とりわけ黄色を強調した騎兵師団のマークはすぐ意味がわかったし、私には一番好きな図柄だった。
 まもなく米軍が旧日本軍が宣伝したような”鬼畜(?)”でないとわかると、ポツポツ疎開先から帰って来る市民も増え、焼け野原の中に赤サピたトタンでかこったバラックが立ち始めた。とりわけ元遊廓だったM町近辺ではいち早く復業するすばしこい業者もあり、即席「ヨシワラ」の前に大ぜいの戦闘服が一列縦隊になって、順番を待っている光景がガラスもない市電の窓からよく見え、私たち思春期の都会の中学生たちに好奇の目を見張らせた。
 やがて第一騎兵師団の一部隊がS町(現在の相模原市)にも来ることになり、草深い田舎町はハチの巣を突いたような騒ぎになった。
 S町には広大な敷地をもった旧日本軍の造兵廠や兵器学校があったため、占領軍がそれらの接収に来ることになった。
 当時S町にはこのほか士官学校とか、通信学校、自動車整備学校、陸軍病院などの旧軍の施設が多くあり、横浜市に次ぐ米軍の大部隊が進駐してきたが、中でも設備も敷地も群を抜いて大きかった旧造兵廠と士官学校は、二十四年たった今日でも、前者は極東でも有数の米陸軍補給廠として、また後者は在日米陸軍司令部のある『キャンプ座間』として、共に戦前以上にその存在を世間に知られていることを思うと、まことに隔世の感が深い。
 戦前の横浜は国際港をひかえていただけに世界各国人の見本市の観を呈していた。ターバンを巻いたインド船員が赤チョウチンで一杯やっていても誰も不思議に思わなかったし、腕に派手な入れ墨をしたポパイもどきの碧眼(ヘキガン;青い目)の大男が床屋の椅子に座っていても、市民にとっては横浜開港以来のありふれた風景だった。そんな環境に育ったから米軍が来ても私はとくに驚きもしなかったが、草探いS町の人たちはそうはいかなかった。
 町中が騒然となり、私たちのまわりの農家でも年頃の娘のいるところはどこも、親たちが真剣な顔つきで離れた親戚へ預けることを相談し合い、また事実それを実行した家も二、三にとどまらなかった。しかし裸同然の”疎開流れ”の私たちには年頃の娘もいるわけではなし、また家も財産もあるわけではないので半は開き直ったかたちで、ひたすら「食う」ことに専念していた。
 やがて秋も終ろうとするころ、占領軍の命令でS町の住人は一戸あたり一人の割合いで労働力を駐留軍に提供しなければならないことになった。物価が日毎に急騰するひどいインフレで貨幣価値はどんどん下落し(サラリーマンの一カ月の給料でリンゴやタマゴが十個~十五個しか買えなかった。(無論ヤミ)生産手段をもたない私たちの生活はいよいよ窮迫してきたため、私は中学を休学してそれに応ずることにした。
 思えばこの決意が今日までの長い駐留軍生活のきっかけとなったわけだが、その頃はもちろんそんなことを考える余祐もなく私はただ”かせぐ”ことに一生懸命だった。しかし中学生の私が働きに出ることは母はかなり心配だったと見えて、初めての日には私にくどいようにアレコレと注意を与えた。
 町役場の前に集まった労働力の姿はさまざまだった。農村地帯だけに大半はヒマをもてあましている農家の次、三男坊たちで、いずれも”小遣いかせぎ”の気やすさから幼ななじみたちとザレゴトを言い合って陽気に振舞い、かと思うと、そのかたわらには旧陸軍の服装そのままの復員兵がきびしい顔つきでキセルをくわえているといったぐあいだった。その中にあって、いつもグループから外れてつくねん(やる事がなくてぼんやり)としているのは大てい疎開者たちで、農家の子弟とくらぺて服装も貧しく、やせて顔色も悪かった。ときには私と同じ年代の少年もいたが、そんなときは双方が同じ「よそ者」の境遇にあるせいか、見ず知らずの相手でも旧友に会ったような親しみを覚えた。
 そんな集団を乗せた草色の米軍トラツクは、さながらアメリカの底力を誇示するかのように、坂道であえぐ日本の木炭バスを軽く追い越し、すばらしい馬力で砂じんを舞い上げながら疾走した。未知の世界へ連れてゆかれる不安と期待に胸をおどらせながら荷台にゆられること十数分、私たちはF駅近くにある元陸軍の兵器学校跡へ着いた。そこには大隊編成の米軍が駐屯していたが、兵士たちの肩には、横浜で見たあの第一騎兵師団の黄色い記章が一様についており、私の目にはそれがとてもなつかしく映った。
 米軍に徴発された日本人労務者の主な仕事は日本軍の兵舎の後片づけだった。終戦の混乱時に目ぼしいものはあらかた旧軍人たちの手によって持ち去られたが、まだ兵舎には古い木製の寝台やらワラぶとん、机などが散らばり、足の踏み場もないほどだった。また兵舎のまわりには、風雨にさらされて赤サビた旧軍の戦車や大砲の砲身があちこちにころがり、無残な姿で敗戦を物語っていた。
 まもなく米軍はブルド-ザを使って、広場の中央に二十五メートルプールほどもある大きな穴を掘ると、その中に手あたり次第に物をほうりこんで燃やし始めた。それはいかにも大まかなアメリカ人らしい処分方法だったが、極度の耐乏生活を強いられている日本人にとってはショッキングな、そしてなんともうらめしい出来事だった。机や椅子はともかく、時には過剰品でもあったのだろうか、何十ダースもの野戦携行食や毛布、タオルなどが、惜しげもなく穴にほうりこまれて燃えあがる様は壮観だったし、またもったいない話だった。缶づめのシチュウーやチーズ、ビスケット、プリンからコーヒー、砂糖、そしてチユーインガム、タバコまで詰めこまれた中身を知り始めた日本人たちにとって、それはまことに”罪な”光景でもあった。
 私の仕事は十人ばかりの兵士達が寝起きをしている部屋の掃除だったが、これは私にとってアメリカ人を個人的に知る、生れて初めて機会ともなった。今なら幼児ても知っているほどの初歩的な英語(おはよう、昨日、今日といった…)を辞書を片手に懸命にしゃべろうとする私のまわりには部屋中の大男たちがいつの間にか寄ってきて、発音を正したり、つづりを教えてくれたりしたが、それも今は遠いなつかしい思い出となった。
 私の好奇心をかき立てたのは言葉だけではなかった。初めて接したアメリカ人たちの持ち物はどれをとっても、目を見張らせるに十分なものばかりだった。ボタン一つでシューッと出るスプレー式のDDTを始め、小さな缶詰になった携帯燃料、よい香りのする石けん、ポータブル・ラジオ、美しいカラー写真がふんだんに載っている雑誌、有り余る食料そして衣類等々、どれも長い戦争で疲弊の極にある貧しい国と、高い文化生活を維持できる(持てる国)との差を歴然と示すものばかりだった。世界で一、二を争う高度成長をとげつつある今日の日本では、すでに日常使い慣れた品物ばかりでビッグリするほうがおかしいし、ことに前記のラジオやカメラなどは、すでに日本の代名詞のようになって先進国アメリカへすら続々と輸出されていることを思うと、二十四年の時の流れは全く夢のようだ。
 その頃の雇用形態を思い出して私は苦笑することがある。雇用といっても全く原始的で、てんでんがバラバラに集まって仕事をし、夕刻その日の賃金をもらって散るといった具合で、役場から委任された年輩者が管理するかたちをとっていたものの、日米双方とも言葉が通じないのだからどうしょうもない。日本人をめぐるトラブルが起き、手マネ足マネで両者が根気よく話合おうとしても、途中で何度も辞書を開いてのぞき込んだり、急に筆談になったりするのだから能率の悪いことこの上なく、天をあおぎ大仰に両手をひろげてじれるアメリカ人たちを、私たちは物珍らしげに眺めているだけだった。
 そんなだから、前の日にまじめに仕事した者が先方の米人から「明日も来い」と言われれば、あくる日また行くといった調子で、そうでない者は大てい外の重労働の方へ回されるので、私たちにとって「明日」という単語は重要な意味を持っていたため、誰もが一番先に覚えてしまった。その他、兵士からもらったひげそり用のクリームを間違えて得意気に顔に塗っていた者もいたし、チーズを石けんと思ってゴシゴシやるなど、落語はだしの珍事は数え上げたらきりがない。
 当時の兵士たちは太平洋戦線で直接日本軍と戦火を交えた歴戦のつわものばかりだったので気も荒く、いろいろと問題もあったらしいが、反面また彼等はほとんどが戦時下の召集兵だったから、学者や実業家などの社会的に地位の高い人たちも一兵卒として参加していた。私が初めて親しくなった初老の軍曹も本土の地方都市の銀行の幹部だと言っていたが、少年の私に自分の息子の姿でも見出したのかあるいは同情したのか、なにくれとなく親切にしてくれた。国から手紙や写真を受け取るたびに楽しそうに語りかけ(といってもそれは残念ながら一方通行だったが……)、お菓子をくれたり、時にはどこでどう都合してくるのか一抱えもあるようなペーコンや牛肉のかたまりを運んできて、私にくれた。この好意は空き腹をかかえる私たち一家にとっては千金の重みを持った救いで、義理堅い母はタンスの奥からなけなしの財産である若い頃のクシやカンザシを出してきて、私にその人に渡すよう言いつけたりした。

 

 次に、相模原市のホームページに掲載されている「相模原市に所在する米軍基地の概要」を紹介しておこう。

「相模原市内には日米安全保障条約とそれに基づく日米地位協定により、キャンプ座間、相模総合補給廠及び相模原住宅地区の3つの米軍基地が所在しており、その面積は428.6ヘクタール(注)にも及びます。

キャンプ座間
所在地:磯部、新戸、座間市
土地面積:172.5ヘクタール(注)(座間市域分を含めた面積は229.2ヘクタール)
主な施設:在日米陸軍司令部等の施設

相模総合補給廠
所在地:矢部新田、上矢部、小山
土地面積:196.7ヘクタール(注)
主な施設:物資の保管倉庫、修理工場

相模原住宅地区
所在地:上鶴間
土地面積:59.3ヘクタール(注)
主な施設:住宅施設
(注)基地面積の合計は、端数処理の関係上符合していない。


※クリックすると拡大表示されます

このページに関するお問い合わせ
渉外課

住所:〒252-5277 中央区中央2-11-15 市役所本館3階
電話:042-769-8207 ファクス:042-754-2280
渉外課へのメールでのお問い合わせ専用フォーム