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X氏ヒストリー~占領期をどう生きたか

第10回
「田中絹代」

 大女優の田中絹代は、1909年に山口県で生まれ、24年8月に松竹下加茂撮影所に入社、同年10月に野村芳亭監督の『元禄女』で映画デビューを果たしている。戦前では、津村謙と共演した1938年映画『愛染かつら』が大ヒット、戦後では木下恵介監督の1958年作品『楢山節考』が高く評価されている。また、1953年には、丹羽文雄原作『恋文』で日本で二人目の女性監督になり、以後、6作品を発表している。
 その彼女について、2015年8月13日付け「毎日新聞」の「毎日映コン70年」で、取り上げているので、紹介しよう。

「映コンは田中の女優人生に大きな影響を与えた。47年12月、毎日新聞紙面に『三名を米国へ 映画コンクールの個人賞』との記事がある。米ハワイの映画興行会社の松尾達郎が、映コンに日米映画人の交換招待への協力を求め、第2回の監督・俳優賞受賞者に米国訪問の副賞を贈ることになったのだ。結局浴8年、第3回「夜の女たち」で連続受賞した田中が渡米することになった。海外渡航が厳しく制限されており、戦後初の渡米女優だった。
 49年10月21日、田中は羽田空港を出発、ハリウッドでジョーン・クロフォードらスターと会い、ハワイでの公演もこなして、約3ヵ月後の50年1月19日に帰国する。渡航中は毎日新聞に現地だよりを寄稿し、帰国第1作を松竹と新東宝のどちらかが獲得するかでも注目されていた。
 帰国した田中はすっかり変わっていた。旅立った時の着物姿は、洋装にサングラス、ハリウッド仕込みの派手な化粧となり、集まった群衆に投げキキで答える。この変貌ぶりが「アメリカかぶれ」と揶揄され、帰国直後の松竹『婚約指輪』、新東宝『宗方姉妹』も不評。『明眸老いたり』と酷評され、人気も急落した。」
 これに補足すれば、一部のメディアは、「アメション女優」、つまり、アメリカで小便しただけの短い滞在期間だったけれど、いとも安易にアメリカ文化に感化されたと、非難したのだから、その後、彼女がスランプ状態におちいったのも肯けよう。そのメディア側も、それまでの「銃後を守る気丈な女性」というイメージを裏切るふるまいや言動に憤ったというわけだ。
「しかし田中はそのままで終わらなかった。51年の成瀬己喜男監督『銀座化粧』、52年の溝口健二監督『西鶴一代女』で絶賛され、復活。53年には、訪米中に詠んだ記事に刺激を受けたこともあり、『恋文』を初監督。映コンでも第12、第15回で女優助演賞、第29回で演技賞を受賞した。」
 そして、1977年1月、脳腫瘍で順天堂病院に入院、3月21日に67歳で没している。

 ユーチューブに、「大女優……田中絹代の生涯」がアップされているので、併せて見ていただきたい。

 また、「西鶴一代女」


「銀座化粧」


「恋文」

などについても、鑑賞していただきたい。