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「ワコール50年史」

COLUMN「ワコール50年史」の「塚本幸一の生涯」その2

VOL.57
小川 真理生さん

ここでは、「ワコール50年史」の「塚本幸一の生涯」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(GHQクラブ編集部)
第57回「ワコール50年史」の「塚本幸一の生涯」その2

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 今回は、「ワコール50年史」「塚本幸一の生涯」(湯浅叡子著)の「第三章 日本再建の一助たらん」後半からです。

 

■第三節 和江商事株式会社の創立
父粂次郎の死
 父粂次郎は戦争中の統制経済で大一商店が廃業に追い込まれて以来、商売らしいことはほとんどしていなかった。幸一の商売が軌道に乗ってくると、帳面付けぐらいは手伝ってくれていたが、やはりもう一度商売がしたいという。そこで一九四八(昭和二十三)年八月、小倉に帰郷する服部を同行させて、九州までヘアークリップの行商に行ってもらうことにした。出張の前日には、久しぶりに商売ができると、たいへんな張り切りようであった。
 ところが真夏の暑さと慣れぬ土地での疲労が重なったのか、帰宅後、粂次郎は発熱した。寝た切りの生活がしばらく続いたが次第に衰弱し、一年後の二一九四九(昭和二十四)年十月五日、帰らぬ人となった。享年五十五歳、慢性的な心臓疾患であった。
 幸一は親孝行のつもりで好きな商売をしてもらったことが命を縮めたのではないかと悔いが残ったが、同年八月に父の商友である三田村秀造が入店し、葬儀にも参列してもらったので幾分とも心を慰められた。
「人たばこ 煙りとなりて 知るぞ味」という句を詠んだ粂次郎の晩年は淡々としたもので、財産はあまり残さなかったがそのかわり借金もなく、十分に人生を楽しんで全うした。粋人であり、暮らし方にも一種の美学があった。朝起きるとまず長火鉢の灰をおこして筋をつけ、そこに切り炭を立てて香をたく。そのあと自分で便所をきれいに掃除するのが日課であった。
 戦争中、粂次郎は疎開する人が安く売っていった骨董品を集め、楽しんでいた。上松松園や竹内栖鳳、川合玉堂など有名画家の作品も多く、それらの掛け軸が座敷の棚に何十本と詰まっていた。父が残したこれらの美術品が、株式会社設立の資金として大いに役立つことになるのである。
 粂次郎が作った「我が家の教訓」には次のように書かれていたという。

  一、商いは あきないにあり
  一、働きは はたをらくにするにあり
  一、信之命也
   常に不断の努力と誠実加ふるに熱を以て精心するにあり
                        和江商事

 滋賀県五個荘の由緒ある商家に生まれ、近江商人としての誇りを最後まで持ち続けた生涯であった。
 葬儀は翌日の十月六日、東本願寺の御連枝大谷暢慶師に来てもらって簡素に営まれた。大谷師は幸一がマンダレー市街戦に参加したときの中隊長であった。葬儀の当日はあいにく京都市内で開かれた百貨見本市と重なってしまい、幸一も葬儀が終わるとすぐに見本市会場へと駆けつけるあわただしさであった。幸一は読経の声を聞きながら、父を失った悲しみとともに、いよいよ自分が塚本家と和江商事を背負ってゆかねばならないという責任を噛みしめていた。

 

会社設立直後の苦難
 父の死は、次なる飛躍への契機となった。幸一は個人経営の装身具商を廃業して、婦人洋装下着を中心とする和江商事株式会社の設立を宣言した。新会社発足は一九四九(昭和二十四)年十月一日とした。
 株式会社設立にあたっては、資本金を百万円とした。しかし、資産としては八十万円ほどしか工面できず、残りの二十万円は粂次郎が残した書画、骨董品を売りに出して帳尻を合わせることにした。
 画商は三十本ばかり選び出すと値をつけた。書画骨董に興味のなかった幸一には、その値段が適正なものであるかどうか関心もなかったが、高価なものが随分安い値段で買われていったという。これがのちのちまで母信からくり返し叱られることになる。会社設立の資金として、つましい生活のなかで蓄えたヘソクリまで供出してくれた母であったが、夫が残してくれた財産が二束三文で売られ手元になにもなくなってしまうと、やはり「心寂しい」というのが偽らざる心情であったに違いない。幸一は、立派な会社の基礎を作るための資金になったといえば父も喜んでくれるだろう、と母を慰めた。
 会社設立にあたって、女性を二名採用することにした。内田美代と長谷川照子である。三田村に続いて入店していた池澤喜和を合わせると、和江商事の総員は十名となった。創業期から幸一とともに働いてきた立花はすでに退職していた。
 和江商事は新会社として業務を始めた。幸一はこれを機会に自分への呼称を「大将」から「社長」へと変えた。しかし同級生であった中村や川口には、幸一を社長と呼ぶことに少なからず抵抗があったようである。
 新会社の主力商品はブラパットのほかに、ストッキングがずり落ちないようにウエストから吊ったベルトで止めるガーターベルト、個人商店時代からの模造真珠製品、木口、三角タイ、ボータイなどであった。初の大口注文は大牟田松屋百貨店からのコルセット三ダースであった。このコルセットは幅の狭いゴムを継ぎ足して間に合わせたようなものであったが、品物のない時代であったので、細々とした需要があった。そのコルセット一枚が千七百円ほどであるから、総計約六万五千円の売上げだった。幸先のよいスタートに社員は喜んだが、松屋では完売するのに四、五年かかったという。
 ところが会社設立と同時に冷え込みが厳しくなり、下着の売上げが止まってしまった。当時は暖房設備も十分でなく、防寒には厚着しかなかった。肌着を何枚も重ね着し、プロポーションどころではなかった。ブラパットやガーターベルトも、暖かくなって人びとが薄着をする春から夏にかけての商品だという認識が支配的であった。いっぽう独占契約した大宝物産からはブラパットがどんどん入荷してくる。とてもこのままの商売では、和江商事の社員を養えるほどの売上げには届かなかった。
 越冬商品を探す必要に迫られて、社員の一人三田村秀造は以前経験のあったベビー服を始めた。ベビー服はどんどん小売店に送られて調子が良さそうだったが、すべて委託販売だという。取引先が売ってくれなければ、返品の山である。
 人員整理を考えなければ給料も払えないありさまで、幸一は打つ手ない自分に強い焦りを感じた。和江商事は設立二ヵ月にして存続の危機をはらみながら、年を越すことになったのである。

 

一九五〇年の長期計画
 創業から会社設立までの三年五カ月の間、幸一は状況に応じて機敏に、かつ真剣に考え抜いて対処してきた。しかし、まだこれといった経営者としての信念が定まっているとは言い難かった。
「それまでの商売を振り返って見ると、基本的には私の戦後の生活への決意はありますが、日々の行動指針が確立されておらず、ただ軍隊当時に一貫した考え方として教え込まれていたものは、作戦要務令の基本方針『機先を制すれば人を制す』という考え方でした」(『私の経営信念』)
 しかし、それすら創業時の不安定な状況では完全とは言えず、「心の落ち着きを見失う事がたびたびありました」という。
 一月になっても売上げは日々低下し、状況はいよいよ悪化していた。幸一はその苦しさを永年の努力も水泡に帰すのみかと嘆きながら、寒さの最も厳しい二月を乗り切ることこそ会社の浮沈にかかわる正念場であると見極めていた。社員には一丸となった取り組みを期待したが、ただ「頑張ろう」とハッパをかけるだけではなく、今こそ長期計画、幸一はそれを「百年の大計」と語っていたが、遠い将来を見越した会社の指針となるべき計画を樹立して表明する必要性を痛感した。二月一日には在庫調べを終えたあと、社員全員が出席してすき焼き会が開かれ、その席で幸一は「志気膨張」のために和江商事の「百年の大計」について熱弁をふるった。翌二日には営業担当の外交員を集め、中村伊一から状況報告がなされ、再び幸一の事業にかける決意と「希望方針」が述べられた。この苦況のなかからの出発こそ、幸一の経営者としての生涯を貫く精神の原点となるものであった。
 和江商事にとっての長期計画は、幸一という一人の人間にとっての人生設計でもあった。この年、一九五〇(昭和二十五)年はちょうど二十世紀の真ん中であった。その年、幸一は三十歳。世紀の転換期までたっぷり五十年の歳月がある。人間として働ける時間はどのくらいあるのかを考えると、五十年が限度であろう。その五十年間になにを成し遂げることができるか、あるいはなにか方針を立てて生きる者がこの世の中に何人いるだろうか。ましてや、自分がやろうと志した婦人洋装下着の分野では、どのくらいいるだろうか。この世の中は人間同士の競争社会なのだから、幸一に対抗できる人間がいなければ世界一になるのは当然である。
 遠い将来を見越した長期計画は、やがて幸一のなかで五十年を十年一節にわけた「十年一節五十年計画」として形をなしていく。第一節にあたる一九五〇年代は国内市場の開拓、第二節の一九六〇年代は国内市場の確立、第三節の一九七〇年代は海外市場の開拓、第四節の一九八〇年代は海外市場の確立、第五節の一九九〇年代は世界企業の実現である。
 一九五〇(昭和二十五)年二月当時には漠然としたものであった「百年の大計」は、やがて幸一自身の経験や内面的成熟、会社の進展によって次第に明確に形づくられ、世界への階段を駆け上がる五十年計画へと固まってゆくのである。

 

半沢商店への行脚
 長期展望のもとに社員全員が気持ちを新たにしたが、経営状態はなかなか好転しなかった。二月に入ると、案の定、三田村が委託販売したベビー服が続々と返品されて、結局二、三十万円の赤字決算となってしまった。
 幸一は東京の半沢商店を訪ねることを思いついた。半沢商店とのつきあいは、半年ほど前に三越へブラパットを納入するにあたって、半沢商店を通して五十ダースを送ったのに始まっていた。
 東京の大塚に店舗を構える半沢商店は、田圃のなかの一軒家であった。六畳二間の店内には所狭しと乱雑に商品や机が並んでいた。半沢では幸一の突然の来訪に驚いたが、待っていたと言わんばかりにブラパット五十ダースの注文をくれた。
 すでに有力な下着メーカーであった半沢商店は、業界のなかでも戦中戦後を通じて政府から錦糸の配給を受けることができた唯一の会社であった。技術的にも優れた製品を生み出し、都内のデパートは半沢の独占市場のような状況であった。ゴム丸編みのジャカードで織ったコルセット一つをとっても、関西における老舗の青山商店が足もとにもおよばない、優れた商品であった。これなら関西でも飛ぶように売れるに違いない。
 久方ぶりの大口注文に幸一は小躍りしたが、代金のかわりに半沢製品、コルセットとのバーター取引きを申し出た。以前三越納入に際しては、のちにファンデーション・メーカー「いずみ」を設立する小泉市郎を介しての取引きであったが、これからは直接取引きということで話がまとまった。
 ようやく活路が開ける。重くたれ込めた雲が一気に晴れたような気がした。幸一は浮き立つ気分を押さえきれず、帰りに銀座の鐘紡写真館に駆け込み、記念写真をとった。会社が苦境に立たされているにもかかわらず、しゃれた格好で写っているのが大いに気に入った。なにごとも考えるだけではだめである。まずやることだ。腹の底から喜びが湧き出てくるようであった。
 半沢の商品は都内のデパートだけで手一杯であったから、関西にはいっさい出回っていなかった。予想どおり、コルセットは飛ぶように売れていった。
 こうして幸一の東京行脚による半沢商店との取引きは、一年半続くことになる。五日から一週間に一度のペースで一反風呂敷にブラパットを包んで夜行で上京し、東京駅前の東京温泉で一服したのち、半沢商店に朝一番に飛び込んだ。そして店先に一日座って、次々にできあがってくるコルセットを待ちかまえ、頭を下げてあるがたく戴くようにして受け取った。夕方にようやく風呂敷包み一杯になったところで、夜行列車に揺られて京都に戻るのである。
 しばらくすると、ラテックスのパッドが開発されて、ブラパットは売れなくなってしまった。そのあとはバーター取引きではなく、和江商事はコルセットを一方的に仕入れるだけであった。
 半沢との取引きがきっかけとなって、春から三ヵ月間で赤字はすっかり解消して、八月決算に明るい見通しがついた。

 

ブラジャー試作
 和江商事の主力商品であったブラパットの商品価値は認められたが、どこに行っても同じ質問を受けた。
「どうやって胸につけるんや」
「洋服の裏に縫いつけてください」
と言ったものの、いちいち着替えるたびに縫いつけるのも面倒だし、かといって洋服の数だけブラパットをそろえるほど贅沢な人もいない。売っている本人もうまく説明できない始末である。そこで、ブラパットを入れるパッド受けをつけたブラジャーを作ってみることにした。当時、「乳バンド」は薬局などで一部販売されていたようだが、ブラジャーは目新しいものであった。
 京都に浜口染工という綿布の整理をしている会社があった。その社長の甥と幸一は同級生であった。ひと巻き三十六ヤールの綿布を切ると、一ヤールから一・五ヤール(一ヤールは約九十一センチ)ほどの断ち切れが残る。これは統制品外なので、目方で売買することができた。幸一はこの断ち切れを伏見まで自転車で買い付けにいった。
 幸一はシアーズ・ローバックのカタログからブラジャーの写真を見つけだし、見様見真似で型紙作りから始めた。ボール紙を切り、虫ピンでつないで、カップの格好を作りあげた。モデルは妻の良枝である。
 ようやく型紙ができて、下請け業者に縫製を頼んだ。できあがってきたブラジャーを見て、幸一は驚いた。洋装の知識のない幸一は縫い代を入れることをまったく考えていなかったので、まるでオモチャ同然である。
 もう一度縫い代を入れて型紙を作りなおし、なんとかブラジャーらしきものを作りあげた。パッドとブラジャーのセットであるから、売上げはぐんと伸びた。カップのサイズはみな同じだったが、脇布の長さによってS・M・Lの三種類のサイズ分けがされた。
 ブラパットを売り込む必要から考え出したブラジャーであったので、和江商事の製品には必ずパッドを挿入する裏ポケットがつけられていた。欧米製のブラジャーにはついていないものだという。この裏ポケットのアイデアはブラジャーの既成概念を変える画期的なものであったが、当時、幸一には特許を取得するという意識さえなかった。

 

■第四節 難関はありやなしや

専属縫製工場
 ブラジャーの縫製はいくつかの業者に依頼していたが、そのうちの一業者から商品が横流しされていることが判明した。信頼関係を第一義として商売の本道をゆく幸一には、これは許し難いことであった。幸一はどこか真面目な縫製業者がないものかと京都産業新聞の記者に相談した。繊維産業の華やかなりしころの業界紙であったから、そういった情報には詳しく、室町で縫製業を営む木原光治郎という男をすぐに紹介してくれた。一九五〇(昭和二十五)年三月ごろのことである。
 工場は中京区室町姉小路角にあり、建物は三業者の寄り合い所帯で、その表に面する屋根裏部屋に旧京都被服の木原工場があった。そこに足踏みミシンを置いて、細々と縫製業を営んでいた。木原は戦前一時高島屋に勤めたのち、古代屋の商号で主に祇園、先斗町周辺を中心として花街に呉服を卸す仕事をしていた。しかし、一九四〇(昭和十五)年に金糸銀糸使用織物禁止の「七・七禁令」が出たのを機に、一転して軍服の縫製業を始めたという硬骨漢である。
 戦後はなかなか安定した仕事がなく、どこか下請けでもよいから専属で仕事をしたいと思っていたところであった。
 木原は白髪をたたえ、一見頑固そうだが誠実な人柄を感じさせる人物であった。年齢を聞くと、幸一の父粂次郎よりさらに年長であるという。幸一は和江商事の業容とブラジャーの将来性について熱弁をふるったあと、木原に無理難題とも思えるような条件を示した。
「まず運転資金として五十万円用意してください」
 五十万円は原材料を仕入れる資金として必要であり、できあがった商品はすべて和江商事が買い取るが、その支払いは六十日手形である、という一方的な条件であった。初対面の相手からいきなり法外な金額を用意しろと言われて木原は驚いたが、意外にも幸一の条件をあっさりと承諾した。
 一九五〇(昭和二十五)年三月、木原工場は和江商事の専属工場となり、ブラジャーの試作を始めた。仕事一筋でやってきた職人気質は、二ヵ月ほどもすると見事な製品となって現われた。木原は仕上げたブラジャーがしわになってはいけないと板に載せ、頭上に押し戴くような格好で納品に来た。店の若い社員が乱暴に扱おうものなら、「商品は神様だ、こうして大事に持ってきたのになにごとだ」怒鳴りつけていた。

 

高島屋京都店に進出
 同じころ、幸一は京都市内の円山公園にある東観荘で、京都産業新聞主催の座談会に出席した。同席したメンバーはデザイナー藤川延子、アクセサリー業者井上早苗、花房吉高など馴染みの顔ぶれに加えて、デパートの宣伝担当者などであった。幸一はこの席で知り合った高島屋京都店の中川次郎課長にさっそく和江商事製品の取扱いを要望したところ、秋には売場を拡張して新しいケースを置くので、そのときまで待ってほしいという返事であった。
 当時、二条東洞院の自宅は会社の事務所と従業員の下宿屋を兼ねて、たいへんな賑やかさであり、遠縁の娘岡田和子も出入りしていた。和子は高島屋京都店に勤務しており、新装開店についての情報は逐一幸一の耳に伝えられていた。
 ところが開店を間近にひかえた九月二十七日になっても、高島屋からはなんの連絡も入らない。焦り出した幸一に、和子から納入先が決まったという情報が入ってきた。大阪難波の高島屋で取引きのある青星社であるという。青星社というのは年来の強敵であった青山商店が改名した社名である。その名を聞いた途端、幸一は頭に血がのぼった。
 その晩、時計の針は夜の十時を回っていたが、幸一は居ても立ってもおられず、中川課長の自宅に駆けつけた。寝ていた中川を叩き起こすと、幸一は春から半年近くも首を長くして待ち続けた気持ちを一方的にまくし立てた。中川は目をらんらんと光らせて興奮する幸一の剣幕に恐れをなして、明日必ず担当の部長に会わせると約束した。
 翌二十八日、幸一は高島屋京都店の雑貨第二部の花原愛治部長と会い、必死で自社製品を並べさせてもらいたいと懇願した。ブラジャーとコルセットの将来性と自社製品の優秀さを説く幸一の口調は熱を帯びて、圧倒されるばかりであったという。高島屋側としても青星社の納入を決めた手前、それを簡単にくつがえすわけにもゆかず、売場に二台のショウケースを用意し、一週間後に成績のよいほうを選ぶということになった。
 初日の十月一日、売場には内田美代が立つことになった。彼女は販売員として雇われたのではないと猛然と拒否したが、まさか男の幸一が立つわけにもゆかないので、拝み倒すようにして引き受けてもらった。
 ケースに並べた商品はコルセット、ブラジャーなど和江商事の自信作である。内田の奮戦も功を奏して、初日から売上げに格段の差がついた。
 一週間後、いよいよ決裁が下りるときがきた。閉店後、ショウケースの上に商品が並べて待っているようにと言われた。幸一は落ち着かないのか貧乏ゆすりをしながら、床に座り込んでいた。頬は落ちくぼみ、内田の目にも哀れな様子であったが、それほど幸一はこの高島屋との取引きに賭けていた。
 午後八時、選考会議は終わり、決裁が伝えられた。
「青星社は全商品を引き上げ、明日からは和江商事一本とする」
 和江商事の高島屋納入が決定された。幸一は満面に喜びを表わし、思わず内田の手をとって言った。
「よくやった。ありがとう」
 内田にとっては滅多に聞くことのない、幸一からの感謝の言葉であった。

 

大阪出店
 高島屋京都店との取引きは百貨店開拓への大きな弾みとなった。二ヵ月後、こんどは大阪難波の高島屋大阪店で半地下のニューブロード・フロアが完成し、洋品雑貨の売場を拡大するという情報が入った。幸一は花原部長に大阪店への紹介を依頼したが、取引き早々で虫がよすぎるし、第一、京都から大阪への紹介はルートが逆であると断わられた。ここでモタモタしては好機を逸する。あたって砕ける以外に方法はない。
 幸一は持ち前の行動力で単身、高島屋大阪店へ向かった。難波にある高島屋は一九三二(昭和七)年に完成し、戦災にも焼け残ったという大きな由緒あるビルである。まるで巨大な軍艦のように見えた。格や序列にやかましい時代である。吹けば飛ぶような和江商事が、呉服店として創業百年以上の老舗に飛び込んでゆくのである。幸一は「突撃!」と自らを奮い立たせながら、店に足を踏み入れた。
 案内された仕入課には折良く伊藤重恭課長が在席していた。幸一は京都における和江商事の状況を説明し、ぜひとも取引きさせてほしいと直訴した。幸一の説明は延々二時間にも及び、次第に熱を帯びていく。
 伊藤課長はそのときの印象を、次のように語る。
「私は机の上に並べられたブラジャー、コルセットの見本には目もくれずひたすら相手の澄んだ黒い瞳に注目をしながら、この青年の話に耳を傾けていたのであるが、とうとうと述べるこの青年の話の中に、商売に打ち込もうとするひたむきな気迫と若い情熱が感じられた。延々と続いた話が二時間にもなろうとする頃、私私の胸の中に何か強い大きな絆のようなものが出来上り、がっちりと彼の胸の中につながれていくのを感じ『この男なら間違いがない、商品も立派だし、確かに女性下着はこれから伸びる商品である』と確信し、即刻取引を結んだのである」(『ワコールうらばなし』)
 納入を許可した伊藤課長は、一つだけ条件をつけた。京都から仕入れるのは不便だから、できるだけ早く大阪に店を持てということであった。
 十二月一日、高島屋大阪店に新しいフロアが開店し、盛大な売出しがおこなわれた。伊藤課長の配慮で、和江商事は四台のうち三台分のケースを与えられるという特別な待遇を受けることになった。売上げは一日三万、四万、五万円とあがり、さすがに大阪は大きな商圏であった。高島屋側もその売上高に驚いて、和江商事への信用は絶大なものとなった。
 一九五一(昭和二十六)年二月、大阪市東区南久宝寺町の久宝寺町連合卸会館の一隅に十坪ほどの小さな出張所を開設することができた。南久宝寺は現金問屋ばかりの町なので、店頭売りも始めた。社員の手が足りず、仕方なく長女真理を出産したばかりの妻良枝が乳飲み子を抱えて出勤することになった。
 この大阪出張所の所長として、岡田家の遠縁にあたる奥忠三が入社した。奥は戦前、朝鮮半島の三中井(みなかい)百貨店に勤務していたが、一族で固められた店内にあって、叩き上げで平壌支店の支配人になるほどの地位を築いてきた人物であった。
 奥の獅子奮迅とも言えるような活躍は、和江商事発展の大きな原動力の一つとなる。出張所在勤のわずか二年半ほどの間に大阪の全百貨店を開拓しつくし、部下の言葉を借りれば「ファイトとそれを超越した実践力、こと販売に関しては執念みたいなものがあった」という。取引きが成立すると、すぐに商品を出せと京都の本社に電話が入る。日曜日でもおかまいなしで、日直簿にはしばしば「大阪から電話、鼻息荒らし」と書かれてあった。
 奥は、幸一がその手腕に期待したとおり、柾木とはまた違った意味での販売部門でのよき先達となった。

 

木原工場を統合
 ブラジャーの生産は軌道にのったが、コルセットは半沢から全面仕入れが続いていた。これでは売れば売るほど半沢の儲けが多くなり、和江商事はいつまでたっても追い越すことができない。なんとかコルセットを自家製造できないものか。幸一は半沢を訪ねるたびに偵察を重ねた。壁にかかったカレンダーや電話のやりとり、散見する伝票の類を盗み見ては、関連業者の情報を丹念に集め、ほぼ一年がかりでコルセット製造にかかれるまでのデータをつかんだ。
 半沢から見様見真似で使用材料やノウハウを学んだ幸一であったが、ある日一つの考えが頭に浮かび、それは次第に大きくなっていった。木原工場では製品はいくら作っても間に合わないほどフル稼働である。事業拡大のためにはミシンの増設を考えなければならないほどであったが、木原工場はあくまでも委託業者である。和江商事としては一台のミシンも保有していない。このまま生産が続けば、木原もブラジャー製造に対する自信を深め、どのような心情の変化が起こるかもしれない。この際、和江商事が真の製造卸商として基礎を固めるには、木原工場を統合するのが一番である。
 幸一は統合の話を木原に持ち出した。木原も原則的には賛成であったが、縁談にたとえて「もう一、二年、嫁入り道具を増やしてから」と言う。これを聞いて、木原の一徹な性格を知る幸一の腹は決まった。年月がたてばたつほど木原は強気になり、統合を渋るに違いない。いまこそ、なんとしても強行しなければいけない。
「柳行李一つで十分、箪笥、長持ちまでそろえたら、もっとええところへ嫁入りするんでっしゃろ。ぜひ、和江商事と一緒になってください」
 それでも木原はウンと言わない。幸一は最後の切り札を出すことにした。
「あんたは私より三十三歳も歳が上だ。そんなら木原さんが新会社の社長になりなはれ」
 これを聞いた途端、木原の態度は一変し、統合を承諾した。どうやら幸一のその言葉を待っていたようであった。
 幸一の独断専行で木原から統合の承諾を取り付けたものの、和江商事社員からは誰一人合意を得ていない。和江商事ではすでに家族的なムードができつつあり、幸一が社長であるから辛抱して働いているという、いわば「子飼い」社員ばかりである。当然、猛烈な反発が出た。
 しかし、和江商事発展のためには、この際統合を図り、一時的に社長が交代するのも致し方ないのではないかと、賛否両論が伯仲した。結局、幹部による投票で決めることになった。集まった顔ぶれは、中村、川口、柾木、奥、そして幸一の五人である。
 結果は賛成が二、反対が二で、最後の一票を幸一が賛成に投じて、木原社長、塚本専務体制が決定した。

 

室町の土地建物を買収
 一九五一(昭和二十六)年五月一日、木原工場は和江商事に統合された。統合が決まったとき、幸一は木原に仏壇の前へ連れてゆかれ、そこで木原の息子の晃三郎と義兄弟の契りを交わした。その晃三郎も和江商事に入社することになった。
 統合がすんで一ヵ月ほど過ぎたころ、こんどは木原工場が入居している建物が売りに出されるという驚くべき噂が飛び込んできた。室町独特の広い屋根を持つ木造二階建ての大店(おおだな)で、中庭をはさんで裏には地下一階、地上三階という当時としては大きな洋館も付いていた。売値は二百五十万円であった。
 木原社長は、この際なんとかしてこの建物を買おうと言う。しかし、当時、和江商事が不動産購入にあてられる資金はわずか二十五万円である。幸一はともかく会って話をしてみようと思った。
 大阪の売主である河野八郎左衛門は、戦時中に木原の世話で白生地を取り扱い、仲買人としてひと財産を築いた人物である。柄は悪そうだが太っ腹であるのをひと目で見抜いた幸一は、得意の弁舌で説き伏せることにした。
「あなたが私に売ってやろうと思われるんだったら、権利書を持っていようがいまいが一緒でしょう。二十五万円の手付け金を渡しますから、権利書を貸してください。私はそれを担保に金を借り、百万円はすぐにお支払いします。残り半分の百二十五万円は半年後から六ヵ月払いで支払います」
 狐につままれたような顔をして、話を聞いていた河野も、
「おもしろい男やなあ。でもおまえの若さと情熱に負けた、よし譲ろう」
と言って、権利書をポンと渡してくれた。
 河野の太っ腹のおかげで無事に権利書を手にすることはできたが、担保も保証人もなくて、大金をどうやって工面するかが問題であった。一介の下着屋では信用もなく、取引先の千代田銀行や日本勧業銀行からは最も警戒すべき業者と見なされ、なかなか金は貸してもらえなかった。仕方なく京都市の商工課長のほうから京都信用保証協会へ働きかけてもらい、滋賀無尽から百五十万円の融資を受けることができた。百万円を約束どおり支払うと、手元には五十万円の運転資金が残った。
 会社は一九五一(昭和二十六)年七月一日を期して、全面的に室町姉小路角に移転することが決まった。工場を表二階から裏の広い洋館に移した。当時の噂では、あんな化け物のようにどでかい店を買って、和江商事はそのうち潰れるだろうと言われていた。
 しかし、事業は順調であった。店舗の残額の支払いを翌年の一月から六ヵ月の分割払いで開始したが、利益から余裕をもって払うことができた。まさに「案ずるより産むが易し」であった。

 

社長に復帰
 幸一は、社長を譲った以上、いままでノータッチだった生産部門を担当し、対外的な営業面は木原社長に全面的に任せることにした。生産現場の工場ではなにもかもが目新しく、それまで木原社長が仕切ってきた製造部門と幸一が築いてきた販売部門では雰囲気がまったく異なっていた。これが一本化されなければ、和江商事は真の意味で一体ではない。古くからいる工場の職長と裁断の男子一名が幸一の方針に従わないので、木原社長と相談して辞めてもらうことにした。そのかわりにスカウトしたのが、当時内外雑貨という会社に勤めていた渡辺あさ野であった。
 戦時中は大阪の砲兵工廠で軍服縫製の経験をもつ渡辺は、ブラパットに使う羽二重を仕入れに来る幸一と知り合った。
「はじめは男前やと思ったんです。ところがよく見てみると、ズボンのなかにお箸が通っているというような細い男でした。こんな細い体をして、これだけ仕事をして、体が参ってしまうのに、アホやな、この人と思いました」
 室町の工場を見てほしいという幸一の誘いに応じて、渡辺はなんどか工場を訪れた。四条大宮にある内外雑貨から室町まで、幸一の自転車の後ろに乗って走ったころのことを、渡辺はいまでも懐かしく思い出す。
 慣れない手つきでミシンを操り、ブラジャーの試作をする幸一を見て、渡辺はもどかしくなって言った。
「一本針で二度縫うところを、二本針なら一度で縫えますのに。そんなやり方して儲かってへんのと違いますか」
 近代的なシステムを誇る軍需工場で、いかに生産性を上げるかを叩き込まれてきた渡辺ならではの指摘であった。
「そない偉そうに言うんやったら、おまえやれ」
 この幸一のひと言で渡辺の和江商事への入社が決まった。渡辺の工程分析の知識は、ワコールの製造部門における生産システムの確立に大いに活用されてゆく。
 若い縫製工ばかりの工場は幸一がリーダーとなって一段と活性化したが、営業のほうからは不満が出始めた。社長となった木原はながらく製造畑を歩んできたので、営業経験はほとんどない。取引先や銀行などから、「和江商事は塚本が社長をしているから取引きをしているのだ。勝手に首をすげ替えられては困る」という苦情が続出した。
 幸一は木原の息子の晃三郎にたずねた。
「率直に言って、君の親父さんには社長は務まらないと思う。息子として率直な意見をきかせてくれ」
 晃三郎もまったく同感で、「父は社長の器ではありません」と断定した。
 一九五二(昭和二十七)年九月、室町三条にある「真砂」という料理屋で臨時の役員会が開かれた。その席でいきなり木原会長、塚本社長ということが議題に出され、木原を除く全員一致で役員会の決定がなされた。それを聞いた木原は、血相を変えて部屋を出ていった。社長交代クーデターである。
 木原は職人であり、幸一が事業家であるのは、周囲の誰の目から見ても判然としていた。クーデターという強硬手段で社長の座を降ろされた木原は怒りのあまり、「塚本にだまされた、会社を乗っ取られた」と周囲に触れ回った。それに対して幸一はいっさい弁解も反論もしなかった。ひたすら事態が収束するのを待った。当時最も力を傾注しなければならないことは、和江商事の順調な事業拡大であった。
 三年後、和江商事の発展を目の当たりにし、幸一の真意を理解した木原は頭を下げて言った。
「会長などという名前はもう結構です。私にできることは、もう一度工場に入って品質を見ることです」
 幸一にとっても願ってもないことである。こうして二人のわだかまりは氷解し、木原は会長の立場のままで再び工場で品質管理にあたり、製造部門におけるお目付役となった。

 

柾木の余裕
 社員の一人柾木平吾の余裕ある商売ぶりには、幸一は心惹かれるものがあった。一九四九(昭和二十四)年当時は、まさに自転車操業の最中で、当時出張に出かけた営業社員たちは、どこへ行っても集金したらすぐに電報為替で送金するように厳しく命じられていた。南九州を担当していた柾木も同様で、鹿児島に十万円ほどの売掛金が残っており、これが集金できなければ月末の支払いに間に合わず不渡りを出すというぎりぎりの状況のとき、柾木は予定どおり集金してくれ、無事に手形を落とすことができた。
 帰った柾木の出張日報を見て、幸一は驚いた。大事な用事があれば、前の晩には現地入りして夜にも先方を訪ね、明日の入金を確認できなければゆっくり寝られたものではないはずである。これが幸一の「機先を制すれば人を制す」のやり方である。
 ところが柾木は、わざわざ途中下車して新しい店を二、三店開拓し、当日朝一番に先方を訪問して集金している。これは幸一にはまったく考えられないことであった。
 幸一は柾木にたずねた。
「君は、どうしてそんなに心に余裕が持てるんや」
 柾木は「ちゃんとできるようになっています。なんにも心配していない」という。この「ちゃんとできるようになっている」というのが、柾木の通う自然社の信仰による信念であった。
 翌一九五〇(昭和二十五)年二月、柾木の結婚式が自然社でおこなわれることになり、その席上で幸一は初めて自然社の小野悦京都経堂長と知り合うことになった。結婚式というめでたい席ではあったが、幸一は経堂長に、かねてより抱いていた二つの疑問を投げかけてみることにした。経堂長がなんと答えるのか、試してみようといういささか生意気な気分もあった。
 第一の疑問は、
「『機先を制すれば人を制す』をどう思われるか」
 経堂長はひと言、
「あなたは機先を制せられれば、人に制せられるとということを知っていますか」
と答えた。第二の疑問は、
「世の中に難関というものがあるが、それを突破する要領はいかに」
「難関はこの世にはありません。そんな決まったものはこの世に一つもなく、それに対した人が難関だと思っているだけで、他人から見ればなんでもないことを難関だと思っているだけです」
 幸一は常日ごろから漠然と感じていた不安を見事に見抜かれたのに驚いた。 

 

自然社通い
 一九一二(大正元)年に誕生した徳光教から分派した自然社は、大阪市阿倍野区に本部を持つ、信者数二万四千人余り(一九九〇年現在)の宗教法人である。金田徳光の開示した「神訓二十一ヵ条」による「天然自然の理法とそれに順応する人間本然の生き方とを解明し、現実生活の指導により安心立命を得ることを目標にする」というのが基本的教理であった。
 一九五〇(昭和二十五)年二月、幸一の自然社通いが始まった。朝六時すぎには京都商工会議所西側にある道場へ行き、禊と呼ばれる雑巾掛けや掃除をしたあと、皆で神殿に並んでお祈りし、誓いの言葉の朗読、そのあと参加した信者による教えの実践体験談が語られ、個別指導となってゆく。
 幸一が自然社の教えで最も納得したのが、その教えの究極である「生かされている」ということであった。この「生かされいる」という発想は、戦地から戻る復員船の船上で思い至った考え方と相通ずるものである。頭で考えて身に付いたものではなく、体で感じ取ったものなので、幸一には易々と体得することができた。あとは現実との間をつなぐ方程式をどう解くかが問題であった。
 事の本質を見抜く眼力と、自分の視座をどこに定めるか。眼力を曇らせないためには、常に「生かされている」という境地に立ち返り、なによりも我欲を捨て去ることが不可欠であった。
 小野教堂長の個人指導は、幸一が教えを中途半端に理解したために商売そのものが相手をだまして悪いことをしているように思え、その迷いのために幾度か中断したこともあったが、ほぼ二年八ヵ月間続けられた。一度事業に失敗した経験がある小野教堂長から学ぶことは多かった。そしてある日、幸一は最後の疑問が解けた瞬間、全身の力が抜け、鼻水とよだれが流れ、あごの骨がはずれたのではないかというような感覚に陥り、その場に倒れてしまった。幸一にとって悟りの瞬間であった。悟りというのは原理が頭でわかったということではなく、全身の血肉になることであろう。
 これを機に、幸一は自然社を退会することにした。幸一は事業人であり、一個人としての宗教的傾倒が会社の経営に影響をおよぼすことを恐れたのである。小野教堂長は「これだけ短期間に多くの神髄を学んだのは、あなただけだ」と幸一を讃えた。
 幸一は会社設立直後に大きな苦難にぶつかり、それに真っ向から立ち向かって道を開いてきた。難関にぶつかるたびに勇気がみなぎり、結果は思わぬ好転となってゆく。難関は、常にターニングポイントであった。事は受ける人の気持ちと取り組み方によって大きく変化する。
 社長交代問題で思案しているとき、幸一は表の営業所から裏の工場に通じる中庭の通路で、三階建ての洋館を見上げながら、ふっと思った。復員早々に一人で始めた商売が、いつの間にか、こんな大きな建物でフル操業するほどの規模になっている。これは夢ではないだろうか。
 次の瞬間、幸一は自分で自分の頬を叩いた。思い切り叩いたので猛烈に痛かった。
「ああ、自分は生きている。この現実は本当なんだな」
 幸一はついていたと思う。しかしその強運を呼び込んだものは、もって生まれた運の良さではなく、「生かされている」という思いであると幸一は断定する。
「この今を充分に惜しげもなく働けばよい、我欲の為でなく、世の為、人の為に」
「生かされている」という喜びを見出した幸一は、その喜びに従って日々の仕事に没頭した。
                                   (つづき)

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー