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地方占領期調査報告

INVESTIGATION REPORT
地方の占領期 第11回「軽井沢」

地方の占領期 第11回「軽井沢」

「燃える外交官 来栖三郎物語」の38~43には、来栖三郎と軽井沢の話が出ているので、紹介する。

「極東国際軍事裁判
 (戦後)まもなく軽井沢には進駐軍専用のジープやバスが次々とやって来るようになった。英語の掲示板や標識がたちはじめ、長野県知事の案内で第八軍司令官アイケルバーガー中将が自ら、軽井沢を視察にきて、「ここを占領軍のレストセンター(休暇地)にしよう」と決定し、即座に長野県に対し、「事務所と別荘百軒、自転車百台、馬百台を用意せよ」と命じた。
 軽井沢事務所に常勤することになった12名の男性職員たちは、おそるおそる華族や財閥たちの別荘を調べ、洋式トイレのある家屋敷がまっさきに高官たち専用の宿舎に当てられた。
 馬はなんとか旧陸軍から撤収することができたが、自転車100台には苦労した。
 兵たちは3日から1週間の休暇を与えられて、常時300名ほどが軽井沢に滞在するので、リクリエーションの場も提供しなくてはならなかった。アイケルバーガー中将のような高官はセスナ機で家族を連れて、週末ごとにやってきた。
 まずテニスとゴルフと乗馬。それから、野戦用バーナーを温め、水泳のプールを作り、冬は軽井沢会のテニスコートに水をはってアイススケート場を作った。
 軽井沢事務所に常勤した12名の男性職員たちは、怖そうな将校たちを相手に、最初はおそるおそる接していた。
 ジェイとピアが通訳として働くようになると、兵隊たちは入口で服装の乱れを直して、きちんと挨拶してから入室するようになり、雰囲気がぐっとフレンドリーでなごやかなものになっていった。
 当時の写真を見ると、あちこちでジェイもピアの姿があり、日本とアメリカの架け橋のような存在だったことが伝わってくる。
「シカゴ・サンタイムス」の新聞記者が書いた「ニッポン日記」には次のようなくだりがある。
“軽井沢を出発する前、開戦前夜のワシントン特派大使来栖三郎を訪ねた。来栖が回顧録を『シカゴ・サン』グループと独占契約する気はないかどうか、知りたかったのである。彼は痩せていて、なかなかの好男子で、英語もたしかだった。そして、『まだすべてを語る心境にはなっていない』と語った。美しい2人の令嬢も加わり、1時間ほど雑談した。”
 やがて、戦争犯罪人として、東条英機や畑俊六や松岡洋祐らが次々と逮捕されていった。来栖家の山荘にはアメリカ人の新聞記者たちが多数きて、「真珠湾攻撃を前もって知っていたそうですね?」と何度も聞かれた。
 軍事裁判なのに、外務省出身の広田弘毅や東郷茂徳や重光葵までもが逮捕されたのは理解しがたかった。ドイツでも三郎とさんざんやりあったリッペンドロップ外務大臣がいちばん最初に絞首刑になる運命にある。だがしかし、彼は占領した国々にユダヤ人の輸送を指示するなど、ホロゴースト(大量虐殺)に加担していたし、日本人がユダヤ人の逃亡を助けたことにも口をはさんできた。東郷も重光もユダヤ人の音楽家の逃亡を助けるなど、リッペンドロップとは正反対の立場にいたはずだ。
 三郎は覚悟を決めた。あの世では息子が待ってくれている。
 ついにGHQ(占領軍)本部の事務室に呼びだされた。
 ドアを開けると、そこには極東国際軍事裁判の首席判事で、ルーズベルト大統領の側近の一人、ジョセフ・キーナンが立っていた。

キーナン首席判事は部屋の奥、窓のそばにいた。三郎は肩を並べるようにして窓のそばに立つ。

外を眺めると、おそれおおくも皇居を見下ろす形で、焦土と化した東京を一望できた。一面の焼け野原で、来栖家も近衛家も全焼。3階がローラースケート場になっていた秩父宮邸も跡形がない。国会議事堂だけがやけに目立つ。まわりの森が焼けてしまったためで、数えきれないほどの人があそこで命を落とした。あとはアメリカ大使館や山王ホテルがぽつんとぽつんと建っているだけだ。人があちこちでうごめき、バラックがたちはじめていた。

キーナンは目線を三郎のほうへ向けながら、「これを復興するには50年はかかるだろう」。それから椅子に座り、「今度の戦争で一般アメリカ人が、もっとも忘れがたい名前は、東郷でもないし、東条でもない、それは来栖三郎という名前なのです」と言って、机の上の書類を広げ、三郎をうながした。

ざっと一読してみると、「もっと交渉をのばして、その間に海軍大臣に相談して、何かをやれ」という内容の英文で、三郎は見当がつかず、戸惑った。
「これは私にとって、覚えがないものです」
「そんなことはない。これは12月6日にきみがワシントンから打ったものだろう」
それはアメリカ側が傍受した通称マジック、日本の外務省からの電信の束であった。
もう一度ゆっくり読み返してみると、どうやら傍受したものの、アメリカ側の翻訳担当者は、「大統領より至尊にたいし奉り」という「至尊」という日本語がわからなかったらしい。翻訳者は「至尊」を「外務大臣」と訳し、「大統領から外務大臣に対して」と誤訳していた。

他にもいくつか決定的なミスを発見した。三郎は野村と相談して、日本政府の首脳に対して、タイムリミットをのばしてほしくて、「今少しく時機の御猶予を得て」と書いた。なのに、英語ではこの「ご猶予」がわからなかったのだろう。「gaining more time」(時間を稼ぐ)という英文にされていた。さらに「内大臣」が「海軍大臣」にすり替わっている。「私は“海軍大臣”ではなく、“内大臣”と書いたはずです。まさかとは思いますが、米内海軍大臣の名前には“内“という漢字が使われていますから、内大臣はその省略形と勘違いされ、誤訳されたのでしょうか?」
「なんということだ!それは恥ずかしいミスです」
 キーナンは非常に驚き、三郎はつづけた。
「外務省の翻訳課の専門家にチェックしてもらいましょうか?」
 これでキーナンの態度が急変して、ぐっと柔らかい懇談ムードになった。
「実は天皇を法廷へ召喚せよ、という声も高いのです。あなたは天皇に戦争責任がないことを立証するようなものは持っていますか?」
「私のほうでも調べてみて、協力しましょう」
 このとき寺崎英成がすでに天皇の通訳と占領軍本部との橋渡しをしていた。
「日米交渉のやりとりの電信をご覧になったことがありますか」
 寺崎をとおして、天皇に質問したところ、まったく存じ上げていなかったことが判明した。三郎が後日、これをキーナン判事に報告すると、「アメリカでは大統領がすべてを知って、統括しているのに。天皇が知らなかったとは・・・」と日本の国政の複雑なシステムに、あらためて驚愕し、納得もいったようだ。
 近衛文麿も同じようにGHQに呼び出され、「犯罪者のような取り調べを受けましたよ」 と三郎にこぼし、憤っていた。
 恐ろしいことに、戦争が終わった後も、人は次々と死んでいく。
 戦災孤児があふれ、ときには餓死していても、目や心がなれてしまった。
 満洲に取り残された開拓民たちも、ソ連に囚われた兵隊たちも生きたまま地獄のような日々を送り、抵抗らしい抵抗もできず、ばたばたと落命していった。
 すでにイタリアではムッソリーニが民衆に虐殺され、逆さづりにされていた。
 ドイツではヒトラーや愛人のエヴァ・ブラウンと結婚直後に自殺。側近のゲッペルスも4人子供たちに睡眠薬と青酸カリを飲ませてから、自分の夫人と共に後を追った。
 三郎とさんざんやりあったリッペンドロップ元外務大臣は、ゲーリングが絞首刑の直前に自害したため、いちばん最初に絞首台の階段をあがる運命にあった。
 ヒトラーやリッペンドロップの信頼を得ていた大島浩は助かった。空襲にさらされたベルリンの日本大使館の部下に任せ、妻と諏訪根自子を連れて疎開し、特別待遇のゴージャスな捕虜生活をおくった。アメリカ経由で、不仲の近衛秀麿と文字どおり、呉越同舟で日本に帰ってきた。この弟の秀麿と近衛文麿は一晩、語り明かした後、青酸カリで服毒自殺した。
 極東国際裁判に先だって、アメリカの議会では公聴会が何度ももたれた。
「野村と来栖は真珠湾を知っていた」と主張するハルに対し、かつてグルー元大使が、正反対の意見を主張してくれた。
「あらゆる秘密文書、あらゆる傍受電信、あらゆる日本政府声明を調べても、彼が知っていたという証拠はありません。彼は交渉打ち切りが真珠湾を意味することを知らなかつたのです。なぜなら日本の陸海軍軍人たちは民間人を信用していませんでした。外務省は陸軍にとって、いつも邪魔な存在であり、2人の大使のうち1人だけが真珠湾を知っていたなんて、到底考えられないことです」
 占領国に外交は必要ないという理由で、外務省解体案まで飛び出す有様で、最終的には1万人の雇用者のうち、およそ千人を残して、残りは解雇された。このとき杉浦千畝も切り捨てられた。
 74歳になったコーデル・ハルは健在で、ノーベル平和賞に輝く。
 一方、高血圧で病気がちだったルーズベルト大統領はドイツや日本の終戦を待たず、肖像画を制作している途中で、脳卒中で亡くなっていた。原爆を開発したのはルーズベルトの選択だったが、日本に落とす決断を下したのは副大統領から昇格したハリー・S・トルーマンだった。
 昭和天皇がアメリカ大使館公邸のダグラス・マッカーサー元帥を訪問したのは9月27日。会見には外務省の奥村勝蔵参事官だけが通訳として立ち会った。
 天皇とマッカーサー。2人の歴史的な2ショット写真が撮影されたのは、玄関を入ってすぐに広間だった。
 かつて三郎はこの同じ場所でグルー大使夫妻と別れを告げ、軍用機とクリッパー機を乗り継いで、ワシントンで奥村たちと合流したのだった。
 亡き息子の良にとって、グルー夫妻は後見人でもあったし、娘のエルシーはジェイやピアたちと親友同士だったから、何度も招かれ、映画や食事やジャズを楽しんだ。
 歌舞伎が好きなグルー夫妻は、愛娘の結婚式では歌舞伎一座をこの広間に招き、披露した。吉田茂の亡き夫人、雪子もそこにはいたし、良もいて、秩父宮殿下夫妻も、各国の大使館も笑顔でそれを楽しんだものだ。
 良はもういない。8歳から家族と離れ、日本で暮らし、親戚やYMCAの寮、就職してからは下宿暮らし、すぐに入隊したため、実感がなかなか沸いてこない。
 今でも休暇になると、「マミー、パパ!」と快活な笑顔で、帰宅してくるような気がする。
 グルー夫妻の日本滞在は10年。日本とアメリカの戦争は3年9か月。どれもこれも何もかも、そう遠い昔のことではなかった。
「時計のふりこが元に戻るように、また平和な日々がもどってくるはずです」
抑留生活を経た後、グルー大使はそう言って、交換船で日本を去る際、大使館の庭に1本、桜の苗木を植えていった。
大使館の周辺は一面の焼け野原が広がっている。来栖家も形もとどめていない。子供の頃から飛行機が好きだった良の工作や本のあった部屋も、焼け落ちてしまった。
翌年の春になって、グルーの桜は薄いピンクの花びらをつけはじめた。
 終戦の翌年からGHQは次々とパージを行い、公職にあった人間は誰も彼もが公職追放になってしまう。5期に及ぶ吉田茂内閣の時代が到来しつつあった。
 自他共に認めるイギリスびいきで、牧野伸顕の娘婿でもあり、常に陸軍からにらまれ、投獄された男である。戦犯はもちろん、公職追放はまずない、叩いても何もでてこない、数少ない人物と言われ、吉田自身、「戦争でも負けても外交で勝つ」と親しい友人には語っていた。
 まず終戦直後の東久邇宮内閣で、晴れて吉田が外務大臣に就任。
 吉田は高知の生まれだが、母親は不明。自由民権運動の志士だった父親の竹内綱の五男として生まれた頃、西郷隆盛に武器を調達した疑いで投獄中だった。
この竹内と志を共にした実業家の吉田健三は実子に恵まれず、「次に生まれる子が男だったら、養子にしよう」という約束ができていた。
養父はかつてイギリスへ密航して、英語や商売を学んだ。毎朝、日の出の共に女中たちを起こして自ら大掃除に励み、狩猟が趣味では近衛篤麿と共に狩猟協会を立ち上げ、自ら副会長に就任するなど、万事にエネルギッシュだったと茂は記憶している。
妻の士(こと)は赤ん坊をとてもかわいがり、甘やかして育てた。
その養父が40歳で早世したため、吉田茂は11歳にして50万円という莫大な財産を相続し、放蕩し尽くした。今の貨幣価値でいうと、数十億円に当たる。
ちなみに外務省にはもう一人、同姓同名の吉田茂がきた。ついでながら、加瀬俊一も二人いた。米内内閣の厚生大臣や小磯内閣の軍需大臣を務めた吉田茂は、別人である。
プライドが高く、「ワンマン」と呼ばれる豪放磊落な性格だったので、学習院でも帝大でも外務省でも話題やエピソードにはことかかなかった。
吉田はつづく幣原喜重郎内閣でも外務大臣を勤め、次期総理には盟友、鳩山一郎とほぼ決定していた。にもかかわらず、GHQがこれをひっくり返した。
1945年5月4日午前9時45分、鳩山は公職追放の通達を受ける。その理由は、田中内閣のとき書記官長として、治安維持法を改悪。文部大臣のとき滝川事件など、学問と思想の弾圧。ヒトラーの政策を日本に移行させ、日本の侵略行為を支持。どれもこれも軍事政権下にあって、鳩山一人の責任といえるのかどうか疑問が残る。だが、ともあれ政局は急転直下、大揺れに揺れた。
同日、極東国際軍事裁判の初日、傍聴席には洋装で着飾ったエディ東郷夫人と東郷いせの姿があった。このご時世に古ぼけたドレスと帽子をひっぱりだしてきたのは、「平和のために尽くした東郷茂徳は戦争犯罪人なんかじゃありません」という精いっぱいのアピールだ。
来栖家の人々には痛いほど気持ちがわかった。
いせは三郎と一緒に捕虜交換戦で帰国した本郷文彦と外務省の帰国歓迎会で知り合い、結婚して、軽井沢で双子の男子を出産したばかりだった。
軽井沢の山荘はお互い近所で、半年遅れて来栖家でも初孫の女子に恵まれていた。
5月13日、九州・飯塚の婚家で、麻生和子が父親から呼び出され、さっそく窓が閉まらないほど人がパンパンの電車に乗って、30時間以上をかけて上京する。ディーゼルから石炭機関車に変わっていたので、トンネルに入ると車内が煙でいっぱいになった。すすけた顔で和子が東京駅に着くと、プラットホームでは小柄な父がぽつんとステッキを持って立っていた。
後に「人を喰った」という自負する吉田は、鳩山の後釜として日本自由党総裁、つまり総理大臣に就任してくれ、と要望され、「娘に聞いて、オーケーをもらってからでないと承諾できない」と答えた。吉田にとって、後にマスコミから「猛女」というあだ名をもらう和子が、いちばんの相談相手だったのである。
「政治のことなんて何も知らないじゃないの。パパったらバカね」と和子は猛反対した。が、吉田は引き受けてしまう。
「パパったら総理大臣なんて、大丈夫なのかしら」と和子が祖父・牧野伸顕に問いかけると、「大丈夫なのかねえ」と首をかしげる有様だった。
 軽井沢の旅館「油屋」の女将、八重子は吉田茂からの電話を受けて、弟の来栖三郎に取り次いだ。
「外務大臣になってくれ」
三郎はずいぶん長い時間、盟友の吉田茂と電話で話していた。が、外務大臣就任依頼を断っている。その足元では初孫のアイリーンが立って、伝い歩きをはじめていた。
来栖家ではボブが良、ジェイが寿永、ピアが珠と、日本名とアメリカンネームをもっていて、家の中ではアメリカンネームで呼び合うことのほうが多かった。
ピアもジェイもそれぞれアメリカ人と結婚。軽井沢で挙式した後、朝鮮、サウジアラビアなど夫の駐在に伴って日本を離れていた。
6月27日、東京裁判でA級戦犯に指名されていた松岡洋祐が結核で死去。免訴になった。
辞世の句は「悔いもなく恨みもなくて行く黄泉」。
7月5日。検察側は隠し球、田中隆吉を証言台に送り込み、あることないこと暴露させた。日米交渉をふりかえり、田中は被告の武藤章を指さして、「来栖の特派は戦争を誘発させるための偽装以外の何ものでもない」と証言し、武藤は後にこれを否定する。さらに田中いわく、陸軍の過激派が戦争に反対する東郷外務大臣のことを、「統帥権干犯だ。やっつけよ」 と言っているのを聞いて、田中が憲兵隊に東郷の身辺保護を命じたとか。なぜゆえ、陸軍中野学校の校長だった田中が、外務大臣を守ろうとしたのか。
 どれもこれも、辻褄があわない話ばかりだ。
しかし、この田中証言は確実に数人のA級戦犯たちを追い詰め、極刑をもたらした。田中自身、死ぬまで、「武藤章の幽霊がそこにいる」と口にし、自殺未遂や神経衰弱を繰り返す。
公職追放になった来栖三郎は学生時代からの親友に頼まれ、「国際教材」という会社で取締役として働きはじめた。
民主主義という言葉がもてはやされ、この会社も「民主主義はまず台所から」という宣伝コピーだった。アメリカの台所用品を輸入する業務で、なれない交渉ごとの連続ではあったが、三郎の語学力と人脈が役立った。
永田町の家は丸焼けになってしまったので、最初は三郎だけ軽井沢から毎月1週間は東京に出てきて、旅館暮らし。そのうち日蓮宗の寺の一部を借りて事務所にした。そこで仮住まいし、次は牛込横寺町で家を借りる。
最初の脳こうそくに襲われたのは旅館、2度目はこの借家で旧友の来訪を受けた直後であった。
最初の脳こそくは1948年の夏。なれない商談を終えて、旅館に帰り、横になろうとして着替えていたら、いきなり脳天がぐらりと揺れて、がくっと膝が折れてしまった。
まぶたの裏でちかちかと小さな図形みたいなものが交錯し、わんわんと耳鳴りがして、遠くから日本語や英語やドイツ語がまじりあい、奥の方でハウリングしているようだ。
体全体がぐんにゃりと骨抜きになってしまい、特に左半身はまったく感覚がなく、立つことも声を出すこともできない。力が入らず、顔が畳を向いたままだ。
どれぐらいの時間がすぎたのだろう。数分なのか、1時間なのか、三郎にはわからなかった。しだいに気が遠くなり、そのまま眠ってしまいそうになった。そのときふと耳元で突然、あのなつかしい声がした。良ことボブはアリスや妹たちがいると英語で話すが、三郎には帝国軍人らしい美しい日本語で会話することが多かった。
「パパ! 大丈夫ですよ。人を呼びましょう」
「ボブ、来てくれたのか!今行く」
 顔をあげていないのに、良が首を横にふったのが見えたような気がする。
 畳の上を這うようにして、廊下にでて横戸を必死で開けようとしたら、運よく女中で見つけてくれた。
このときはまだ軽いほうで、1か月ほど医者が往診を受けた。
2度めは生死をさまよい、身体を起こすことも会話することもできなくなった。
アリスがそれはもう献身的に尽くす。医学の本を取り寄せ、リハビリのことも勉強して、自分も汗だくになりながら介護した。
三郎は下半身に麻痺が残った。ゆっくりとなら話せるようになり、家の中ならば自分でなんとか伝い歩きができるようになった。
軽井沢の山荘を売って、そのお金で永田町の焼け崩れた家を建て直す。
土地の半分は住居、半分はアパートにして、アリスが自宅で英語教室を開く。
折りも折、稲田悦子が離婚して東京に出てきて、最初は住み込みで麻生和子の子どもたしの面倒をみたりもしていた。まもなく稲田の父も熟年離婚したため、来栖家のアパートの一室を借りてくれた。
三郎は寝ている時間が長くなり、アリスは何度も部屋を模様替えするので、「目が覚めると、僕はどこにいるんだ? という気分になるよ」と三郎を驚かせた。この大輪と咲くひまわりのような妻の笑顔に、今まで何度励まされてきたことか。
吉田茂はときたま家に来て話し込んでいく。さすがに総理大臣ともなると、豪放な外観とは裏腹に迷いが多く、吉田は牧野伸顕や娘たちはもちろん、あちこちで相談をもちかけるようになった。
「きみは原敬みたいな総理大臣を手本にしてくれるのだろう?」と三郎が聞いたところ、「おれみたいな無精者に原さんのマネができるわけないだろう」という吉田らしい回答がかえってきた。
 麻生和子は夫の麻生多賀吉と共に、秘書官として吉田茂をサポートした。九州の飯塚よりも東京で暮らす時間が長くなり、アリス来栖とは日曜ごとに教会でまた会うようになった。

 これ以下は、「燃える外交官 来栖三郎物語」で検索すれば、読むことができる。

地方の占領期 第3回「京都」

Published on 2017/07/17 10:00

Category: 地方占領期調査報告

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