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「宝塚歌劇100年の歩み」

COLUMN「宝塚歌劇100年の歩み」

VOL.51
小川 真理生さん

ここでは、「宝塚歌劇」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(GHQクラブ編集部)
第51回「宝塚歌劇100年の歩み」

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 今回はインターネット上の「宝塚歌劇100年の歩み」の「1934年―1950年」を見てみると、以下の通り。

世界に忍び寄る戦争の足音、暗い時代を勇気づける作品を世に送り出す

1946年に宝塚大劇場再開、小林一三翁を囲んで出演者全員の記念撮影

 

 人々が自由な空気を謳歌していた1930年代、宝塚レビューは一つの完成形を迎えます。歌、ダンス、化粧など、何もかもが斬新でオリジナリティにあふれたステージは、やがて海を越えて広がり、ドイツやイタリア、アメリカなど各国で公演が行われました。
 しかし、時代は世界的な恐慌を経て、戦争に突入。日本も例外ではなく、アメリカと開戦。そんな中、レビューの上演は中止されますが、歌劇団は奉仕隊を組織して各地で慰問公演を行いました。終戦間近の1944年3月には、宝塚大劇場と東京宝塚劇場が閉鎖。戦後も両劇場の接収が解かれるまで時を要しましたが、その間、宝塚歌劇は日本劇場や帝国劇場で公演を行い、暗い時代を勇気づける明るい作品を世に送り出し続けました。

 さらに「はじめましての宝塚」に、「壮絶なる宝塚の歴史」があるので、それを覗いてみよう。

壮絶なる宝塚の歴史
宝塚歌劇の歴史 100年続いている宝塚歌劇団。
……ということは、宝塚は戦前から存在している劇団だということです!
幾度も困難を乗り越え続いてきた宝塚の歴史を、劇場の変遷と共にご紹介します。

宝塚歌劇団の前身は、1913年(大正2年)に結成された「宝塚唱歌隊」です。
宝塚本線の開通をきっかけに、「宝塚新温泉」という娯楽施設が建設されました。
宝塚新温泉には室内プールが併設されていましたが、あまり利用者は居なかったようです。

そこで!
思い切ってその室内プールを劇場に改装。
温泉場での余興として公演を始めたのです。
パラダイス劇場の場所は、今でいうバウホールの辺りなんだとか。
ずーーーっと、本拠地は宝塚なのです。
現在でも宝塚で主要な愛唱歌となっている「おゝ宝塚」をご存知ですか?
♪「小さな湯の街宝塚に 生まれたその昔は
知る人もなき少女歌劇 それが今では
青い袴とともに 誰でもみんな知ってる」
このような歌詞があります。
当時、たった16人の少女たちで結成された劇団が100年以上も続く立派な歌劇団になるとは知る由もなかったでしょうね…!
素晴らしいことです。
よく、宝塚ファンは宝塚(大劇場)のことを「ムラ」と呼びます。
それは、上記のように小さな村から発展したことに愛着を持って呼んでいるのでしょう。
しかし、残念なことに1923年(大正12年)、パラダイス劇場は火事により全焼してしまいました。
その後すぐに「宝塚中劇場」を新築し、その翌年(1924年)には初代宝塚大劇場が完成します。
総座席数3,500席もある大きな劇場です。
1927年(昭和2年)9月1日には、日本で最初のレビュー『モン・パリ』を上演。
レビュー黄金時代に突入です。
(レビュー記念日とは、毎年9月1日のことを指します)
1934年には東京宝塚劇場も開場されました。
しかしその後第二次世界大戦が始まると、当然宝塚にも影響を及ぼし始めます。
上演される演目はどんどん戦争を意識したものとなっていくのです……。
さらに、1940年(昭和15年)には全生徒が加入させられる「大日本国防婦人会宝塚少女歌劇団分会」という組織が設立され、軍需工場や軍病院へ慰問公演を行うことになりました。この頃「宝塚歌劇団」という名称に改称しました。
1944年に出された非常措置令により、ついに宝塚大劇場と東京宝塚劇場は閉鎖を余儀なくされます。
宝塚大劇場での戦前最後の公演は、『勧進帳/翼の決戦』という演目でした。
この時主演を務めていた春日野八千代さんは「白薔薇のプリンス」「永遠の二枚目」と呼ばれ、一世を風靡した方です。
春日野八千代さんは近年(2012年)に96歳で逝去されるまで、劇団名誉理事を勤めながら最年長の宝塚の現役生として在籍されていました。
宝塚大劇場閉鎖後は海軍に接収されてしまったため、生徒たちは全国各地への慰問公演を細々と続けることになります。
その一方、女子挺身隊として労働奉仕も行っていました。
その頃、東京宝塚劇場は風船爆弾工場として使用されていました。

 第二次世界大戦終戦後、1946年(昭和21年)に宝塚大劇場での公演を再開しましたが、東京宝塚劇場は依然として進駐軍に接収されており、アメリカ軍の強い要望で「アーニー・パイル劇場」と改名……。
アーニー・パイル劇場では駐留する外国人兵士達の慰問を目的とした公演が行われ、日本人は観客としての出入りが禁止されていたのだとか。
その間、宝塚の東京公演は日劇、江東劇場、帝国劇場を利用して上演されていました。
1955年(昭和30年)に接収が解除され、東京宝塚劇場での公演が再開となりました。
その3年後、上演中に劇場内で火災が発生し大部分が焼けてしまいましたが、約2ヶ月後には修復が完了して公演を再開しています。
初代宝塚大劇場は、建設から68年が経った1993年に劇場の老朽化に伴い閉場。 同じ敷地内に新しく建設されたのが、現在の宝塚大劇場です。
その5年後、建設から64年が経って老朽化した旧東京宝塚劇場が改装を開始。
改装中の使用する仮設劇場として、期間限定で「TAKARAZUKA1000days劇場」が開設されました。(使用期間が約1000日間だったことが、劇場名の由来です)
閉場後は「インフォス有楽町」に改称され、現在はLOFT有楽町店・無印良品有楽町店が入っています。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー