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地方占領期調査報告

INVESTIGATION REPORT
地方の占領期 第4回「鹿児島」

地方の占領期 第4回「鹿児島」

地方の占領期 第4回「鹿児島」

 「鹿児島ぶら歩き」(2014年4月21日付)には、以下のように記述されています。

■ 米軍進駐
 占領軍の日本進駐は、昭和20年8月28日の神奈川県厚木飛行場への米軍先遣隊到着に始まります。二日後の30日には、連合国軍最高司令官ダグラス=マッカーサー元帥が到着しました。
 9月2日、日本の重光葵外相と梅津参謀総長は、アメリカ軍戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書に調印しました。
 日本は実質上、アメリカ軍の軍事占領下に置かれるようになりました。
 当初、アメリカ軍は軍政をしく方針でしたが、進駐がなんらの流血を見ることなく、極めて平穏に行われたことや、日本政府の要請に応じて軍政布告を撤回することになりました。
 9月6日トルーマン大統領は、「降伏後における合衆国の初期の対日方針」を承認し、必要な場合の行動の権限を保留しつつ、管理について日本政府を通して行うよう正式に訓令しました。
 連合国の軍事占領は間接支配の形式をとりましたが、GHQの指示は日本のあらゆる国内法に優越していました。

■ 鹿児島進駐・鹿屋
 鹿児島県に米軍が進駐してきたのは9月3日、鹿屋飛行場でありました。
 これは、西日本でもっとも早い進駐でした。
 外国軍進駐、不安を抱いた市民たちは山間部へと避難を始め、鹿屋市内はネコ一匹通らぬほど人気がなくなったそうです。

 ギラギラ太陽が照り付ける蒸し暑い9月3日の正午近く、志布志方面上空から2機のダグラスが鹿屋飛行場に向かって飛んできました。
 ゆっくり旋回、1機が着陸姿勢に入ったが、再びエンジンをふかして舞い上がりました。
 再度着陸姿勢にはいると、そのまま砂ぼこりを巻き上げながら降りてきました。

 降りてきたのは司令官シリング大佐、出迎えの人々と挨拶を交わすと、早速基地一帯の視察を始めました。
 大佐がまず要求したのは、滑走路の補修でした。
 相次いだ空襲によって、あちこちに窪みができ、爆弾や飛行機の破片が飛び散っていたのでした。
 シリング大佐の態度は命令的なものではなく、事務的だが和やか、飾りっ気のないアメリカ人気質でテキパキと処理する人物であったそうです。

■ 鹿屋市高須海岸
 翌日4日には、高須海岸に海からアメリカ軍が上陸してきました。
 朝から偵察機が何度も低空で旋回し、異様な雰囲気であったそうです。
 午前7時30分、湾口に艦船数隻が見えてきました。その数21隻。
 艦艇は太白浜に停泊していましたが、遠浅であったため金浜へ移動しました。

 昼前、上陸用船艇が渚に突っ込み、船前方の観音扉が開きました。
 やがて砂浜には太い鉄線で編んだ金網と鉄板が敷かれ、船底からブルドーザーが降ろされました。
 ブルドーザーは、海岸にあった高さ10メートルほどの崖を崩すと、あっという間に道路に通じる道を造ってしまいました。

 人海戦術とスコップによる工事しか知らない現地の人々は、アメリカの凄さを見せつけられた思いでした。
 鹿屋基地に通じる道路は、米兵や物資を満載したトラックがひっきりなしに通り始めました。
 進駐は、ひと声の号令や叱咤の声もなく、整然と行われました。
 上陸の様子を見ていたひとりの人は、「これでは、日本が勝てるはずがない」と呟いたそうです。

 この日、鹿屋に進駐してきた米兵は約2500人だったそうです。

■ 鹿児島市進駐
 9月24日、米軍視察団を乗せた4機の米軍機が、焦土鹿児島市の上空を低く旋回していました。
 鴨池飛行場に着陸した米軍視察団は、自動車で県庁と市役所を正式訪問しました。
 視察団のなかには、7月27日、鹿児島駅一帯にビラで予告爆撃した飛行将校もいたそうです。
 市役所では、岩切重雄市長を囲んで殆ど一方的な会談が続いたそうです。

 10月5日、佐世保から来たグレイズ・ブルーク中佐が鹿児島駅に到着。
 この人物が、鹿児島の初代軍政官。
 翌6日、地方軍政部が鹿児島市役所に設置され、本館2階の正副議長室・議員控室・助役室・収入役室・食堂を接収して使用しました。

 これより先、鹿児島県では米軍進駐に備えて、内務部に外務課を設置、軍政部の接遇に万全を期しました。
 宿舎として風景楼、中村武兵衛氏宅(下荒田)、旅館満潮(天保山)、三越ホテル(天保山)の他、民家数軒が充てられました。

 10月17日には鹿児島駐留軍の先遣隊として、リチャードライト・ヘイワルド中佐以下30人が熊本から列車で鹿児島市入りし、県立第二中学校(現甲南高校)に入りました。
 28日には佐世保から、アメリカ第六軍第二海兵隊クレル大尉以下280人。
 30日にはシャリカル大尉以下300人の海兵隊員が専用列車で到着し、次々に県立第二中学校へ入って行ったそうです。
 この駐留部隊は、昭和21年10月まで鹿児島市に駐屯しました。

 海兵隊員のなかには、市民に暴行や殺傷事件を起こす者たちもいました。
 被害を受けた市民たちは、泣き寝入りするしかない状態であったそうです。

 以下は、「鹿児島ぶら歩き」(2014年4月29日付)よりの引用です。

一部米兵の暴力
 鹿児島市に進駐したアメリカ兵は、サイパンや沖縄など激戦地を経験してきた者たちでありました。
 米兵のなかには、白昼堂々と市民に襲い掛かる者もおり、暴行、殺傷事件が後を絶ちませんでした。
 被害を届け出る市民は少なく、できるだけアメリカ兵の目に触れないという自衛手段をとっていました。

 被害を届け出たとしても、警察の捜査はうやむやでした。
 戦時中、大いに力をふるった警察権力は、進駐軍の前では無力な存在でした。
 鹿児島署員のなかには、米兵から暴行を受けなかった者はなく、同僚にも話せず全くの泣き寝入りであったそうです。

■ 自警団の誕生
〇 米兵殴り込み事件
 進駐軍の横暴と警察の無力によって、社会不安はつのる一方でした。
 市民たちの間では、隣組や町会単位で自警団結成の機運が高まっていました。
 その動きが早かったのが鹿児島市上荒田町で、青年たちが中心になって団員約150人の自警団が誕生しました。
 この自警団結成は、上荒田専売公社近くで起こった「米兵の殴り込み事件」がキッカケでありました。

 アメリカ海兵隊が県立二中(現・甲南高校)に進駐してきた直後、学校から500メートルほど離れた坂元さんの家族は夕食をすませ、ゆっくりしていました。
 突然、大きな音ともに表戸が破れ、玄翁(大きな鉄の槌)を持った三人の米兵が現れました。
 兵士たちは土足のまま家に上がり込み、玄翁を振り回しました。
 坂元さん家族は、必死になって外へ逃げ出しました。
 次男が頭を割られ、血の海となった玄関前で意識不明のまま倒れていました。

 家族たちは医者を求めて奔走しますが、探し当てた医者は来てくれませんでした。
 みんな、夜間外出の危険を知っていたのでした。
 家族のひとりが家に帰ると、米軍のジープが駆けつけ応急手当をした後でした。
 次男は数日間、生死の境をさまよいましたが、一命だけは取り止めたそうです。
 占領下、この事件が明るみになることはなく、何の補償もありませんでした。

〇 自警団結成
 県立二中から専売公社一帯は戦火を免れており、15歳から25歳くらいまでの青年およそ150人が集まり、三班に分かれて夜警をすることにしました。
 表向きは食糧難で起こる畑荒らしの警戒と火の用心でありましたが、本当の目的は米兵による婦女子の暴行をけん制することにありました。
 米軍に悟られぬよう事前に警察と打ち合わせを済ませていました。
 そして、毎晩50人が一組になって提灯を先頭に拍子木を鳴らしながら、「火の用心」を呼びかけるようになりました。

 結成間もないある夜のこと。
 自警団が二中裏通りを巡回していると、自動小銃が空に向かって放たれました。威嚇射撃でありました。
 団員たちは雲の子を散らすように逃げ出しましたが、何人かが捕まってしまいました。

 自警団の詰所には憲兵が包囲し、団員は次々に憲兵本部へ連行されていきました。
 取り調べは、とても厳重だったそうです。
 ピストルを構えた憲兵に囲まれた中で、ひとりひとり身体検査、住所、氏名を記入させられました。
 通訳から、「銃殺だぞ」と脅されながらのものだったそうです。

 警察と事前に打ち合わせをしていたためか、二時間ほどすると団員たちは帰宅を許されました。
 ひとりずつ間隔をとって帰りましたが、裏門には数人の米兵が待機しており、銃で背中や足を撃たれ、小川に投げ込まれた団員もあったそうです。
 この事件を契機として、米軍も不良米兵の監視を強化、自警団は青年団へと発展的に解消しました。

■ 巡査、アメリカ兵を刺す
 一部米兵の乱暴は、目にあまるものがありました。
 不良米兵の攻撃は、市民を守る警察官に向けられていました。
 そのため、鹿児島署員は街頭に立つことを嫌がったそうです。
 辞表を出して辞めていく者、鹿児島署以外の署に転出した者もありました。

 昭和21年5月10日の昼下がり、鹿児島市朝日通り交差点で些細ないさかいが起こりました。
 交通整理中の警官に、二人の米兵が近づき「こっちに来い」というジェスチャーをしました。
 近づくと、米兵は警官の鼻ひげを触り、ニヤニヤしながら「あっちへ行け」と指さしました。
 警官は、「バカにするな、投げつけてクツで踏みつけてやるぞ!」と怒鳴りました。
 米兵は何やら呟きながら、走り去りました。

 次の日の午後5時過ぎのこと。
 その警官が朝日通りの交通整理を終えて、県立図書館に仮住まいの本署へ引き揚げようとしていました。
 そこへ、一台のタクシーが止まり三人の米兵が降りてきました。
 前日の二人と大きな男が、「ユウ、キノウ、ワカル」と言いながら警官を睨みつけました。

 警官と三人が山形屋正面玄関前に来た時、米兵たちが取り囲みました。
 ひとりはコンクリートの塊を握り、襲いかかろうとしていました。
 身の危険を感じた警官は、腰の短剣を抜くと振り回しました。
 剣の切っ先が、ひとりの右腕に刺さりました。
 なおも飛びかかる大男を、警官は路上に投げつけました。
 この警官、身長161センチ・体重74キロ・柔道4段で、CICの柔道教師もしていました。
 現場は黒山の人垣ができ、「ヤレ!ヤレ!」「米兵を司令部へ突き出せ!」の声が飛んでいました。

 直後、軍政部の車が駆けつけ、警官は県立二中の司令部留置場へ収監されました。
 背中にピストルを突き付けられながら、MPによる徹底的な取り調べを受けました。

 米軍側は独自の捜査を行うと、3人の米兵の素行は悪く、目撃者の証言も警官に有利でした。
 結局、警官は無罪と断定され四日後に釈放されたそうです。
 その後、海兵隊は静岡へ移駐し、警官は内勤となって事件はピリオドを打ったそうです。

 以上が鹿児島への米軍進駐の一端です。