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地方占領期調査報告

INVESTIGATION REPORT
地方の占領期 第3回「京都」

地方の占領期 第3回「京都」

 「ふろむ京都山麓」から以下、引用。
 「GHQ占領下の京都 第2回・日本占領」
 敗戦から2週間後の8月28日、日本人が鬼畜と信じていた米兵が、厚木飛行場に到着した。第11空挺師団部隊の先遣隊200人近い面々である。はじめて米軍を目にした日本国民の感想は「小柄で痩せた日本兵が、こんな大男に勝てるはずがない…。彼らの腕の太さはわたしの太ももほどもある…」
 そして8月30日には、GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が、愛用のコーンパイプを手に、専用機「バターン」から厚木に降り立つ。連合国軍、実質はアメリカ軍による日本占領がはじまった。
 マッカーサーは皇居の堀に面した第一生命ビルを本部とした。泣く子も黙る、と恐れられたGHQ進駐軍、彼はその最高指揮官であり、その絶大な権力は戦前戦中の天皇をもしのぐといわれた。なお皇居とその周辺部の空爆を、米軍はあえて控えていた。天皇の宮殿への攻撃は禁止されていたのである。また占領時の米軍統治用施設として、まわりのビルやホテルなどを無傷で残していた。
 GHQとわたしも呼んでるが、正確には「GHQ/SCAP」連合国軍最高司令官総司令部。General Headquarters/Supreme Commander for the Allied Powers。GHQにはSCAPを付すべきですが、連合国軍総司令部「GHQ」と記します。
 占領軍は当初、東日本は第8軍、西日本を第6軍、両軍が日本本土を制圧した。第6軍は司令部を京都、烏丸四条の大建ビル(現在の古今烏丸)に決定した。
 進駐軍はその後、続々と追加派遣され、年末には45万人にものぼる連合軍将兵が日本各地に進駐する。
 昭和20年9月(1945)の京都進駐史をみてみよう。
○9月21日 ハイライン大佐率いる進駐軍調査団15名が先遣隊として京都に到着した。蹴上の都ホテル(現・ウェスティン都ホテル京都)で日米による受け入れ実行本部の会議が開かれ、米軍は入洛する進駐軍を収容するための接収建物の確保を指示した。
○9月24日 正午をもって、都ホテル全館が占領軍に引き渡される。星条旗が本館入り口、屋上、ロビー、大食堂正面に掲げられた。なお全館接収の内示は、同月7日に外務省終戦連絡局京都事務所の中村豊一公使が来館して告げていた。
○9月25日 米第6軍が京都進駐開始。部隊は京都駅前広場に集結したのち、大久保村(宇治市広野町/現・陸上自衛隊大久保駐屯地)に駐留。27日には第6軍主力部隊約3千人が奈良線新田駅に続々と到着。
○9月27日 司令部を大建ビル(現・古今烏丸)に置き、星条旗が玄関・屋上ほかに立てられた。
○9月28日 第6軍司令官クルーガー大将が赴任。接収された下村邸が司令官宿舎にあてられた。現在の大丸ビラ、烏丸通丸太町上ル。
○将兵宿舎のため、下記など多数の施設が接収された。
 都ホテル:高級将官宿舎として約200人収容。
 勧業館:下士官兵員500人。岡崎公園、現・京都市勧業館みやこめっせ。
 旧日本陸軍京都第16師団兵舎:約1300名収容。伏見深草。
 旧陸軍工兵隊兵舎:通信隊150名。伏見桃山、現・市営住宅と市公園。
 市美術館:兵舎、後に軍病院。岡崎公園。
 公会堂:兵舎100人収容。岡崎公園、現・京都会館別館。
 ステーションホテル:将校50名宿舎。京都駅前。
 京都ホテル:当初は大建ビルに通う将校用ホテル。植物園住宅完成後は家族連れは
 引っ越し、単身独身の将校ばかりになってしまう。現・京都ホテルオークラ。
 日本電池寮:黒人兵専用宿舎200名、西七条。

 そして12月、年末に45万人にも達していた駐留米軍だが、日本国民の軍事抵抗も受けず、予想以上に順調な占領支配を展開することができた。マッカーサーは半数以下の20万人での日本占領体制に切りかえることを決定した。第6軍は朝鮮に移動が決定する。第6軍は第1軍団だけを日本に残し、1軍団は第8軍に統合される。
 1946年1月1日、GHQ京都司令部は第6軍から、第8軍第1軍団に引き継がれる。第1軍団京都司令官にはウッドラフ少将がついた。そして46年初頭より、進駐軍は続々と復員を開始する。
 なお接収だが、米軍が施設を指定し日本の官民が米軍に提供する。使用料は持ち主に支払われた。しかし占拠した米軍からではなく、日本政府の終戦処理費から施設使用料が毎月交付された。

 昭和20年8月15日(1945)以降の占領略史を、京都から上記のようにみてみた。翌年にかけて一応の落ち着きをみせるかごときの京都だが、庶民は特に食生活には難渋した。空地はどこもイモや野菜の畑になってしまった。1946年秋の収穫までは、特に苦しかった。45年秋は大凶作で、かつ復員兵と引揚者の帰国で、人口が膨れ上がったためである。また大空襲がなく建物が残った京都には、住処を求め縁者を頼ってたくさんの被災民が流入した。
 空襲を受けた街には、焼け跡に粗製のバラックが立つばかりで、都市住民の住まいは住宅などとよべる状態ではなかった。京都はさいわい、住む所にはあまり不自由な思いをすることがなかったが…。

 GHQ京都司令部は翌21年7月に、難題を持ち出す。「将校家族住宅DHを数十戸建設するため、京都御所外苑を接収する」。これには京都府市民のみならず、府庁も宮内省も仰天してしまった。東京のGHQ本部にも陳情し、なんとか京都御苑を回避することができた。
 このころになるとアメリカ本土から軍将校のたくさんの家族たちが、日本に駐在している夫や父と同居するために押し寄せてきた。日本軍では占領地で家族と暮らす軍人はまずいないであろう。しかしアメリカでは一般の兵卒は別にして、少尉以上の将校は家族とともに暮らすのが当然であり常識であった。子どもたちには幼稚園から小学校まで、アメリカンスクールが住居地内に併設さる。当然、グラウンドもテニスコートもプールも付いている。

 御苑をあきらめた司令部は代替地を要求した。府は淀競馬場を提案したが「水害の心配がある」と断られてしまう。そして米軍が下した結論は、京都植物園である。同園の広大な敷地すべてがDH将校家族用住宅(デペンデントハウス)数十戸建設のために、接収されてしまった。御所御苑の身代わりに、京都が誇る日本最大最高の公立植物園が取り上げられてしまったのである。
 1946年8月28日、正式に全敷地接収が決まり、10月1日よりブルドーザーやクレーンで突貫工事が開始される。たくさんの樹木が電動ノコギリで伐られ、また重機でなぎ倒され、草花や貴重な山野草などが埋め立てられていった。
 第1期工事は翌47年4月に完了し、第2期は同年6月から11月。1947年暮れ近くにDH工事は終わった。2万5千本以上もあった樹木は、周辺部を主にわずか6千本あまりになってしまった。

 広大なDH敷地内には、GHQ発行のパスポートを持っていなければ、日本人は立ち入ることができない。ミリタリーポリスMPに所属するセキュリティポリスSPふたりがケヤキ並木の向こう、旧植物園の正門前に歩哨として立っていた。横にはSP何人もが待機する詰所もあった。なお大建ビル玄関に立っているのはMPである。白いヘルメットと腕章には黒い「MP」2文字が鮮やかであった。

○参考
『占領下の京都』 立命館大学産業社会学部鈴木良ゼミ編著 1991年刊 文理閣
「花と緑の記録―府立植物園の五十年―」 駒敏郎著 京都『府政だより』資料版連載 №185~197 昭和46年5月~47年5月
                               <2011年8月21日>

 つづいて、京都府立大学大学院生命環境科学研究科の先生方による研究「占領期京都における接収住宅に関する研究」 http://www.jusoken.or.jp/pdf_paper/2014/1311-0.pdfを紹介する。

次は、「占領期の京都駅」(2015年4月19日)から。

 昭和20年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し太平洋戦争は終結しました。
二代目京都駅と進駐軍
 9月28日には京都駅内にもR.T.O(RAILWAY TRANSPORTION OFFICE)と便殿(貴賓室)には進駐軍ライス機関(後の地区司令部)が、便殿の横には進駐軍の武器弾薬室が設置されます。その他、駅前ではステーションホテル京都や関電ビル…と、京都市内の建築物は次々に接収されていきました。
 R.T.Oが設置されるということは、京都が進駐軍にとっていかに重要な拠点であったかが伺えます。


祖母の遺品から見付かった絵葉書

 上記の絵葉書は昨年亡くなった祖母の遺品から見付かりました。
 写真の様子から昭和20年〜25年の間に撮影されたもので、駅前広場中央にある大きな看板は進駐軍が設置した軍団戦歴標です。

 終戦直後、京都駅をはじめとする国鉄は日本各地に進駐軍が配置される為の輸送や貨物による物資輸送等に奔走します。駅前には浮浪者や靴磨きの孤児、街娼の姿も見られ、昭和24(1949年)年7月4日にはシベリアからの復員兵が京都駅前で事件を起こし、翌年11月18日には二代目京都駅の焼失と、例外無く怒涛の占領期を送りました。
 昭和27年(1952年)5月25日 、京都R.T.O返還。数日後の27日に三代目京都駅が竣工します。
 講和條約が締結されたことにより、駅前の軍団戦歴標も撤去されることとなりました。
『京都駅開業100年 市民とあゆんで一世紀』によると「第一軍団も京都から引き揚げることが決定した時、撤去するか改修して使用するか申し入れがあった。用途も無かったので断ると数日後に作業を始め、コンクリート台に建てられた鉄柱が残らないよう綺麗に撤去していった」とあります。

三代目京都駅と駅前広場
 上記写真で、撤去された跡を見ることが出来ました。駅前広場の緑地帯に見られる、白い二本のラインのうち南側(京都駅側)がそれにあたります。
 この緑地帯は後々、京都市営地下鉄烏丸線工事の為に一度消失することとなります。
 現在、同じ場所に緑地帯はあるものの、占領期の痕跡はすっかり消え去ってしまいました。

 今年は戦後70年となりますが、当時を記憶している方々も少なくなってきました。京都で言う先の大戦は応仁の乱だと揶揄されがちですが、他県と同様に空襲被害もあり、占領期も経験しているのです。

【参考文献】
「京都駅物語 駅と鉄道130年のあゆみ」 荒川清彦
「京都駅のあゆみ 出逢い重ねて-京都駅110周年」日本国有鉄道 京都駅
「空からみた京都」 岩波写真文庫
「開業90周年 京都駅90年の歩み」大阪鉄道管理局
「京都駅開業100年 市民とあゆんで一世紀」京都駅開業100年記念事業推進協議会
「街娼 実態とその手記」竹中勝男・住谷悦治編

 では、京の花街の占領期はどうだったか。夕刊京都新聞社の「戦後京の二十年」の記事「京の花街に進駐軍がやってくる」を見てみよう。
 「終戦を迎えた昭和二十年、九月二十一日、米駐留軍の調査隊が入洛、要所を下検分すると早くも二十五日から進駐軍が都にはいり、その後二十九日第六軍司令官クルーガー大将が入洛した。
 “進駐軍が京都にやってくる”という緊迫した空気とは別に新聞には「ダンス芸妓募集、経験不問、素人可、十五歳以上」「ダンサー緊急募集、十六~二十九歳、二百人、前借にも応ず」などの広告が踊りました。そして進駐軍専用の「キャバレー鴨川」や祇園甲部の歌舞練場に吉本経営の「キャバレーグランド京都」がオープンしたのです。

 花街の方は、先斗町は終戦時、軍の授産場としてパラシュートなどを作っていましたが、戦後は歌舞練場を接収されキャバレー鴨川として舞台を提供、当時の木屋町筋のやとながダンサーを勤めました。
 しかし早二十一年五月には配給やありあわせの布を集めて戦後初の鴨川おどりを「平和日本」の題で復活させ、CIDに芸事の町であることを認識させ、接収を解除させました。さらに十一月十一日温習会に進駐軍を招待しております。
 宮川町は野砲の薬きょう用紙袋の工場となっており、若い芸妓は知多半島の工場に狩り出されていました。戦後松原署から命ぜられ、四十歳前後の芸妓が二十人、二十年暮にキャバレー宮川町として舞台をホール化して進駐軍専用のダンサーを置きました。
 祇園甲部は、駐留軍命令として歌舞練場のキャバレー改装を申し付けられましたが、花街を正当に評価していないとこれを拒絶、すべての建物を吉本興業に貸しました。「キャバレーグランド京都」が吉本経営だったのはこういう経緯があったのです。
 復活の都をどりは南座で行うなどの苦労を経てまでも、祇園甲部は誇りを守りました。その後当時の日銀総裁一万田尚登氏らの尽力で向かいの姿に復元、国を相手に補償費一億二千九百万円を勝ち取りました。
 上七軒は戦前とほぼ同じ、六十人の芸妓が復活、祇園乙部(現東)も芸妓に百人、娼妓百二十人を数えておりました。
 そして座敷にダンスレコードが鳴り、片言の英語が飛び交い京都の花街は新たな時代を迎えたのです。
 アメリカの士官を迎えて芸妓が座敷で
  『かづきをおくれやす』
  というとその士官が
  『さかづきを返すのか』
 返杯の風習のないアメリカ人は驚いたといいます。

 

 では、戦後、占領軍に接収された深草練兵場はどうだったかをwww.nnpjp.com/rekisi/09.htmで見てもらい、とりあえず「地方の占領期・京都編」は終わりたい。