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「杉野学園五十年史」

COLUMN「杉野学園五十年史」その2

VOL.41
小川 真理生さん

ここでは、「杉野学園」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第41回「杉野学園五十年史」その2

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 今回は、「杉野学園五十年史」の「第五編 短期大学創設以後 昭和二十四年―昭和三十年」を読んでいく。その「第1章 短期大学の創設」は、こう始まる。

1 短大設立の申請
 短期大学の設立は、昭和二十四年春、東京都洋裁学校協会加盟職員集会の席上、文部省側から
「すでに新制高校では洋裁科の新設されている今日、その指導者は、第一資格として大学卒業生でなければならないということになった。ところがわが国には洋裁の大学がない、高校教育の指導者となるべき人の高い教養を必要とする意味からいっても、大学機構による養成が必要になって来た。専門家の皆さまに御一考をのぞみたい。」
 といった要望があった。その席でこれを聞いた院長は「この文部当局者の意志に基き、わが国の洋裁教育を発展させるためには、ただ技術のみでなく、教養の高い指導者を養成する必要がある」と考えついた。そこで競技の結果、ドレスメーカー女学院は今までどおりにして、一部を短期大学に昇格させることに意見の一致を見た。理事長はこの短期大学について「短期大学とはアメリカのジュニア・カレッジの制度で、今までわが国になかったもの。これは二カ年で専門教育を与えようとする学制で、この制度の発表があると、いちはやく、本学院でも短期大学の設立を申請いたしました。もしこれが認可になれば来年四月より開校の予定ですが、募集人員は二百名、名称はドレスメーカー短期大学といいます」(会誌「随想」)と説明している。
 かくして短大設立の準備にとりかかることになった。

2 設立準備の巨歩第一歩
 昭和二十五年はドレメ創立二十五周年にあたる。しかも杉野家の令息利夫氏は慶応大学を卒業して、すでに理事として若い情熱を大ドレメのためにつくしている。この時に短大を設立するのは、若々しくのびゆく未来をシンボライズするにふさわしい、壮挙であった。
 けれども一口に短大設立というが、それにはなみなみならぬ決意と努力と資力を必要とする。
 大学を設けるにあたって、まず必要なのは教授の招へいによる教授陣の充実、同時に校舎である。校舎のためには敷地を要する。理事長はおとくいの早わざで、元高橋是賢邸あと約八百五十坪、その向い側の東亜経済研究所あと八百坪を買収した。
 第二期復興計画はここにすっかり書きあらためられ、短大校舎、理化学実験室、調理実習室、附属図書館などをその構想に入れて、しかも急速な実現をはからねばならなかった。それは鉄筋コンクリート建の近代的なドレメ王国の建設がはじまる導入の役割さえつとめている。
 大学図書館は、文部省の規定する蔵書数が必要であった。大学図書館にふさわしい内容の図書を急に、しかもおびただしい数を一時にそろえるのは、事実上不可能に近かったが、芳和会はこれを知ると、全国委員に図書寄贈をよびかけた。短大設立のお役に立つならばと、たちまち数千の図書が集まり、感激させた。
 運動場は元東亜経済研究所焼あとを地ならしして、テニスコート、バレーコートを建設した。
 こうして化学物理実験室、調理実習室等の設備も完成して、短大設立を無事におえた。けれども理事長にとっては、これは建設の巨歩の第一歩にすぎなかった。

3 地方で最初の公開ショウ
 短期大学認可、ドレスメーカー女学院創立二十五周年は、新築なった大講堂で開催された。
 昭和二十五年三月三十日から四月三日まで、この盛大なショウが終ると、それをそのまま地方に持って行くことになった。けれども最初の企てだけに、いろいろ準備も必要だった。
 第一に気づかわれるのは、院長の健康。もし途中でたおれるようなことがあったら、講習会をやるところもあるので、主任の先生二人は必要である。ところが理事長が、
「よし、ぼくもいっしょに行こう」
 これは百万の味方を得た力強さだった。事実、大阪で理事長といっしょに落ちあってから、院長はにわかに元気になった。
 もう一つはモデル。やはり学院の生徒でなければならないので、生徒から四人をえらび、あとは各地の生徒の中からえらぶことにした。
 最初は岡山、四月二十二、三日のショウは超満員の盛況、まずまずの大成功で、一応東京に帰った。
 次は大阪、院長はかぜでのどをはらしたまま東京をたち、大阪の宿では寝こんでしまい、医者をよぶさわぎだった。五月一日からショウがはじまったが、ここも大好評を収めた。
 五月四日、理事長と北爪、今井両先生は一行と大阪駅で合流して、九州にむかった。翌朝下関駅につく。窓をあけるとホームいっぱいの人の波があらそってかけつけて来た。卒業生や孫の生徒の出むかえである。花束をいくつもらったかおぼえていないくらい、車中は花束の山でうずまってしまう。朝日新聞の記者がのりこんで来てさかんに写真をうつし、門司までの間インタビューがつづく。
 門司駅でもまた孫の生徒の大歓迎をうけた。ホームがなくなるところまで列をつくって、列車の進行につれて、あいさつをした。
 博多駅には出むかえが三、四十人、かとおもったら、特別の改札口を出ようとすると、外から一せいに拍手の音がわき起こった。改札口から、駅前の広場をつらぬいて、二重、三重の孫の生徒の行列が両側にずらりとならんでいる。人垣の一人一人が顔にあふれる熱烈な歓迎をされるので、胸があつくなる。人垣のつきるところに、大型のバスがとまっている。驚いたことにその胴に一メートルもある文字で「来福歓迎ドレスメーカー女学院長杉野芳子女史」と横書きにされていた。まるで選挙運動の車である。

4 福岡の映画劇場に長蛇の列
 翌日、午前十時から福岡県下の高校家庭科教職員の洋裁講習会、最初は四十名の予定で企画されていたが、九州各県の高校で聞きつたえて、三百四、五十名の教職員が集まった。そのためにマイクの用意がなかったのを、急にあわてて設備をとりつけるさわぎ、高校の先生方は廊下にあふれていた。
 翌日は七百名の大同窓会がもよおされたが、翌八日、午前十時から九州で初めての公開ショウ、この日熊本などの遠い地方から汽車でかけつけ、午前四時から行列をつくったという。開演三時間前にすでに長蛇の列、たいへんな人の波のラッシュにマイクが声をからして整理している。会場である金星映画劇場の入口のガラス戸が開場前にこわれるさわぎがあった。会場は福岡市の目ぬきの通りにあるので、この行列はさすがの博多っ子もどぎもをぬかれた。
 司会者があいさつに先立って、理事長を「わが国最高デザイナー杉野芳子先生のよき片腕」と紹介したのに、理事長があいさつに立つや、「杉野芳子こそは私の片腕として、ドレメを築いた」と応酬した。このスピーチは今は亡き大宅壮一氏が週刊朝日にとりあげてワンマン理事長の面目躍如だと伝えた。

5 別府も鹿児島も大成功
 福岡の会場は開場とともに、はちきれんばかりの超満員、三回のショウがことごとく熱心そのものの大観衆をあつめ、院長は説明に力が入り、二時間の予定が三時間にのびる熱の入れようだった。
 十二日の別府のショウは、観光地であるので催しものには人はあつまらないというジンクスを破って、ここでも人波のラッシュ、九州一という大映画劇場をうめつくし、開場のとき、ここでも入口の大ガラスを五、六枚も人波がこわす騒ぎだった。別府はじまって以来の超満員という話であった。十七日の鹿児島もこれに劣らぬ超満員をつづけた。
 東京を出発するときには、ショウの入りが悪かったらと、心配したのがおかしいくらいで、教え子、孫の生徒、またその生徒と、数えきれない多数が、ドレメの洋裁を学ぶことを誇りとして、服装文化の向上充実につとめ、理事長、院長を慈父、慈母のようにしたっていることが、初めて明らかになった。

6 短期大学開学
 五月十五日杉野学園女子短期大学の開学式があげられた。わが国で最初の洋裁関係の大学である。最初は被服科だけで出発したが、昭和三十七年四月から生活芸術科が加わった。修業年限は二年だが、さらに被服について高度の研究と技術の習得を希望する人のために、一年間の専攻科が設けられた。
 開学当時の学科目は、一般教養の選択科目として文学、英語、フランス語、音楽、経済、教育、法学通論、物理、化学、専門科目は被服概論、被服工作、服装史、人体美学、被服材料、意匠学、色彩学、染色学、手芸、人体美学、被服整理等で、卒業までに六十二単位修得することになっていた。
 また教職課程をおさめたものは、高等学校の被服科および家庭科の教員資格があたえられる。
 ドレスメーカー女学院がなぜそのまま昇格しなかったかという理由について、理事長は(会誌「随想」)に説明して、
「短期大学はもともと大学制度でありますから、円滑な教養の涵養を第一とし、技能の養成は二の次となることはやむを得ません。時間的に申しても現在ドレスメーカー女学院で行なっているような高度の技能養成方式をそのまま持ちこむのは不可能なわけでありましょう」

 

 つづいて、「第2章 躍進するドレメ」をみてゆこう。

 

1 二十五周年の繁忙
 昭和二十五年には、春の短大開校記念のショウと、十一月二日からの創立二十五周年記念大会のショウの二つがもよおされている。学校にとっても短大開学という大きな出来事を歴史に織りこんだこの年は、多忙をきわめ、その多忙が次の躍進にむすびつくものであった。
 春のショウが中国、九州で行なわれたように、秋のショウは金沢に持って行き、さらに福井でもよおされ、異常な成功をかち得ている。院長と地方、学校と地方との交流はさらに本校での夏の指導者講習会、ひきつづいて芳和会総会、つづいて暑中休暇を利用しての地方講習、九州、四国、北陸、高崎の各地で行なって、ますます緊密さを加えた。
 この年の院長は多忙をきわめた。十一月一日から四十日にわたってNHKから洋裁講座の全国放送を行ない、にわかにたかまったファッション・コンクールのラッシュに審査員として各方面から文字どおりのひっぱりだこになった。ティナ・リーサ・コンテストをはじめとして、朝日新聞社、読売新聞社、東京新聞社など、デパートとタイアップして、デザイン・コンテストをきそっている。しかも公平な審査員として、万人もみとめ、最初に指を屈するのは院長であった。さらに文部省の洋裁教育研究会に出席しなければならなかった。さらに、学校教授、「ドレスメーキング」の責任指導、各雑誌その他への執筆と超人ぶりの活躍をしたのであった。

2 類例のない服装関係の図書館
 六千名の学生を擁し、短大を発足させたドレメは、建設の急坂をのぼる時機にさしかかっていた。本年度に完成された業績の主なものは、五月の短大開学に前後した鉄筋コンクリート二階建の講堂、十一月四日は図書館落成式をあげたが、同時にテニス・コート、バレーボール・コート、五十メートル・トラックなどをふくむ運動場の新設をも祝っている。
 けれども、もっとも学校に重要なことは、これらの建設が鉄筋コンクリート四階建の短大校舎をふくめていたことである。
 その着手までには、なお時間を要するのであるが、不燃の校舎、永遠の学園の構想が短大開学という飛躍の中から生まれ出て来ている。繁栄をきわめたドレメが戦災によって灰になってしまった教訓が、ここに生かされることになり、学園として、全く新しい近代化の道をあゆむことになった。

3 学校法人となる
 昭和二十六年二月、財団法人だった杉野学園は、大学令による学校法人にきりかえられた。短期大学の併設にともなって、学校法人としての資格がととのい、文部省の直轄となったわけである。
 この年の入学志望者は非常に多かった。受付開始日の一月十五日には徹夜するものもあったほどで、一日にして七〇〇名をうけつけている。受付締切は二月十五日であったが、一月二十日に締切り、一五〇〇名の中から、定員一二〇〇名を考査の結果決定した。ところが窓口の受付を停止したのに、事情を知らない地方の志願者は、どんどん願書を郵送して来た。その数があまり多いので返送するわけにゆかず、非常にこまって職員会議をひらいた。その結果、四月入学は例年の倍の入学をゆるすことになった。そのために、にわかに教室の数をふやさねばならなくなった。当時の苦心について、理事長は会誌に書いている。「これらの増加する学生を収容するために従来短期大学で使用中の校舎の一翼をあけて充当することになり、短大の方はあらたに運動場敷地内に短大仮校舎を特急建設し、これに移ることに決定し、二月十五日にこれが建築に着手した」。例によって電撃的スピード工事でクリーム色二階建一四〇余坪の短大仮校舎ができ上ったのであるが、ここに思わない新状勢が発生した。というのは、地方の入学者で、寄宿舎にはいるのを希望する者が多く、「結局、増設をやむなくされて、図書館の書庫の裏手の昨年(昭和二十五年)購入した土地に一〇五坪の二階建、理想工事で寄宿舎を完成。七十名を収容することを得た。」
 これが杉の寮であるが、三月二日着工、四月十日完成、「三十八日間のスピード工事」と理事長がいうように、電撃工事を得意とする理事長がさらに記録を短縮して、不可能を可能としたものであった。しかも時間のスピードアップにもかかわらず「理想工事」の寮ができあがったのである。
 しかも十月の入学生がまた予想を上まわったために、三田寮の近くに寄宿舎を買収して、双葉寮とした。その上、翌年の入学者増加にそなえるのと、春の本科生から師範科にすすむ者の増加を考えに入れて、教室の増設をしなければならない。その対策に、理事長がまた一つの困難と戦うことになる。
「そこで私は現在二七〇坪平屋建第三校舎のうち、二〇〇坪を二階建にすることを考えていた。許可は近々におりるが、ただ現在も毎日授業中であるため、この工事をどうして授業に支障なく進めるかについて悩んでいる次第である」(会誌「随想」)。
 こうして総二階、L字型増築という新しい偉容をもって、第三校舎があざやかに生まれかわり、のびてとどまるところをしらないドレメの一翼を形成するに至ったのである。なお昭和二十五年の記録によると、在校生六〇〇〇名、二十六年は七九六〇名である。

4 競馬場のファッション・コンテスト
 昭和二十六年、芳和会誌が「ドレメ・ジャーナル」と改称され、院長の流行の紹介をもりこんで新しく発足した。
 この年、農林省では、日本の競馬界のレベルを欧米の本場までひきあげる方法として、競馬場のファッション・コンテストを催すことを企画した。ファッションは競馬場から生まれると、フランスあたりでは言われるくらい、毎年秋にはオート・クーチュールが腕をふるって競馬場でファッション・ショウをするという。
 高島屋の後援で、ドレメにデザイン・コンテストを引きうけてくれという相談が持ちこまれた。
 九月二十三日と二十四日、場所は府中の競馬場、正午になると正面に大きな幕が張られ、ドレメ・タイプの新しいデザインに、若鮎のようなスタイルをつつんで、二十人のファッション・モデルがあらわれる。いや、ファッション・モデルではなかった。今日のためにえりぬかれた生徒たちなのだ。すべては院長のニュー・スタイル。
 女性の入場者に人気投票させ、最高点のスタイルに投票した人には洋服生地をあげるというのである。
 レースの合間をみて、トラックでショウが行なわれた。スタイルは番号によって表示され、ドレスは若むきの外出着や通学通勤服が多かった。スタイル・ナンバー8がコンテストの結果一位にきまり、こうして、わが国の競馬界で最初のデザイン・コンテストが成功のうちに終った。

5 文部省幹部教員養成講座をドレメで
 昭和二十七年には杉野芳子デザイン・ショウは秋だけしか行なわれなかったが、そのショウが名古屋ばかりでなく、遠く北海道へも持って行かれた。理事長もまた、北海道はじめてのショウというので、行を共にした。札幌では会場の札幌松竹座に二〇〇メートル以上の長蛇の列がつづき、場内は三回にわたるショウのことごとくが超満員であった。旭川、函館も大成功であったが、これで戦後院長の旅行は、九州二回、岡山二回、四国一回、関西二回、名古屋三回、北陸二回、仙台、秋田、福島、それから北海道各一回ということになった。こうして日本をほとんど一周して、いたる先々で大勢の孫の生徒から熱狂的な歓迎をうけた。
 この間、ドレメの洋裁は、ドレメという学校をこえて、公立高等学校教員に対する講習というかたちになって、新しい発展をとげるに至った。昭和二十六年七月二十七日、文部省主催の認定講習がお茶の水女子大学で行なわれ、この日が院長の担当の日であった。講習生は高校の先生方がほとんど大部分であったが、院長は十数点の実物をモデルに着せて、「スタイルの選び方」「流行のとり入れ方」をドレメ式に納得のいくように講義をした。その講義が講習生に多大の感銘をあたえて、ひきつづいて地方からの出張講習の依頼が殺到するにいたった。
 こうして、翌二十七年の七月二十五日から八月六日にわたり、文部省主催の幹部教員養成講座がドレメで行なわれることになった。この講習会が当局の英断というか、先例をやぶって、私学で開かれることになり、その第一回にドレメがえらばれた。今まで官立学校で開かれてきたのであるが、「専門の学校で開くことの必要を痛感せられたものか、しかもその第一歩として本学院を指摘されたことは、服装という専門的教科のもつ特殊性にかんがみ、かつ、その実をとった行き方に対して、われわれ服装教育に職を奉ずる者として全幅の賛意を表するものである」と、理事長は会誌の「随想」にその意義をたたえている。
 高等学校の家庭科、職業教育(被服)担当教師が、生徒を指導するにあたって、理論と実技の両方面にわたって、自信をもてるまでに向上させる目的で行なわれて来たものである。
 開講式の当日、院長があいさつに立って、「ドレメのありのままを」で指導したいと述べた。「ドレメのありのまま」――いつも教室で生徒にむかって教えるのと同じに、教授法も何もかも全く同じにということである。何しろ講習生が高校の先生なので、それを生徒あつかいにするのは失礼だというえんりょがあった。けれども「ありのまま」で、「少しでもわかっていただきたい」「少しでもわかって帰りたい」この二つの心が、美しい火花となって、二週間の講習が短かいようであった。
 教えおしみをしない、わかるまで教える、できるだけ分りやすく、ドレメの毎日がこの講座の中で美しく咲いたとも言える。講座の最終日を明日にひかえた八月五日夜、思いがけないことに、文部省側の係の方々と院長はじめ講習にあたったドレメの先生がたに対して、謝恩会を雅叙園で催してくれた。それは講習に集まって来た高校の先生がたが、全く自発的に催されたもので、みんなで会費を持ちよって、ドレメ側を招待されたのであった。こうした自発的な謝恩会は、今までの講習で、まだ一度も行なわれたことがなかったのだという。
 その席上、文部省側の山本キク先生は、
「この講座の第一回目として、ドレメをえらんだのが、実に誤りでなかったこと、この期待以上の成果をあげ得たことは、受講生の精進も、講師側のよき指導もさることながら、そのドレメをえらんだ『私の目』に誤りのなかったことを皆様の前に自慢させていただきたい」
 といった意味のあいさつがあった。受講生の代表者から、かわるがわるていねいな感謝の言葉があった。
 翌六日の終講式には、文部省から終了証書がわたされたが、その後のお別れの茶話会には、また質問、質問と夕方まで解散を惜しむようであった。
 また、この講習のあいだ、七月二十八日には、労働省の主催で、全国職業補導員の講習会が行なわれ、院長は招かれて本省講堂で「デザインのえらび方」について講演している。
 越えて十一月二十六日から月末まで福岡県教育委員会主催の県下高等学校教員のための洋裁講習会は、院長を招いている。集まった先生は百余名、中には七月、ドレメの文部省主催講座に出席した先生二人があったが、七月に習ったものを実際に製作して四人の生徒に着せて、院長に作品批評を乞うた。院長としては、夏の講座があまり短い期間だったので十分に理解して帰ったか不安もあったが、その作品を見ると、指導のポイントをよく理解したことが分り、思わず院長はおどろきの声をあげたほどだった。この先生は夏の講習振りを、「あんなに親切な講習をうけたのは最初」だと、壇上から全受講生を前に絶賛していた。
 院長の努力はここでも実を結んでいた。院長は福岡に行く前々日、埼玉県高校教員講習にも招かれたが、会場の松山高校には、その月に院長が発表したばかりの新しいスタイルをいろいろの絵にして、教室や廊下にはってあった。
 院長は方々の県に招かれ、高校の実情に接するにつれ、高校家庭科の洋裁教育が前進していることを認め、先生方が真剣な態度で勉強をつづけるならば、高校教育だけで、家庭むきの洋裁は専門学校に行かなくてもいいようになると感想をもらしている。それは院長の主張する個性的な洋裁が、正しく理解されたことを意味している。

6 デザイン・コンテストに栄冠はつづく
 ティナ・リーサ賞設定以来、にわかに創作デザイン熱がおこり、そのために賞をかけるものが多くなった。そして優勝の栄冠が続々とドレメにもたらされ、早くからデザイナー養成につとめた実力を、にわかに社会に示すことになった。
 昭和二十五年読売新聞社主催日本ファッション・コンクールで文部大臣賞を師範科生が得た。二十六年夏は特選と通産大臣賞、読売新聞賞、佳作六名のうち五名の入選者があった。
 二十六年 東京新聞社主催婦人服ファッション・コンクールでは、特選を第二部と第三部で在校生が獲得、佳作四名も在校生だった。
 全洋学連主催 全国洋裁学校教職員生徒作品展 第一部厚生大臣賞、第二部文部大臣賞、第四部通産大臣賞、をそれぞれドレメで、佳作三十点のうち十四点いずれもドレメで占めた。
 二十七年 婦人朝日主催全国仕事着コンクール 特賞をすべてドレメで独占、ほかに一等二等三等各一人、佳作七人もドレメで占めた。
 全洋学連主催の全国洋裁学校教職員生徒作品展では、前年度あまりにドレメが賞を占めたので、このときから、各部二点、全部で十点までしか出品できなくなった。その結果、通産大臣賞、ほか佳作七名、計八名の入選を見て、最上位をしめた。
 二十八年 産経コンクールの文部大臣賞、都知事賞、産経賞をドレメの生徒が占め、その他主婦之友、婦人生活、婦人朝日などに大量の入選者を見た。もはやコンテストの成績のいいのは、習慣のようになって来た感がないでもない。そしてまたドレメ系の学校が、地方のデザイン・コンテストにすぐれた成績をあげて、他を圧倒していた。

 

 つづいて、「第3章 永遠の学園建設へ」となるが、占領期における杉野学園のあゆみについて見てゆくのは、ここで終わりにしたい。

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー