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「杉野学園五十年史」

COLUMN「杉野学園五十年史」その1

VOL.40
小川 真理生さん

ここでは、「杉野学園」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第40回「杉野学園五十年史」その1

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 今回から、戦後すぐに盛況を見たドレスメーカーの学校法人の「杉野学園五十年史」を見ていく。まず「第四編戦後復興時代 昭和二十年終戦後―昭和二十四年」の「第1章 奇蹟の再開」から引用を始める。

1 終戦一週間後に生徒が
「終戦の報道を知ったのは山中湖畔の山荘(芒雲荘)においてであった。昭和二十年八月十五日、満八年におよぶ大戦争であった」
 と、理事長は『私学経営に生きる』に書いている。満八年、その感慨は察するにあまりがある。疎開先の伊東さえ空襲におびやかされ、山中湖畔にのがれて、五日目にむかえた終戦であった。
 理事長、院長はまず死の町にもひとしい東京に帰って来た。二十年間の努力にきずきあげた殿堂は焼けて灰になり、何ものこらなかった。ただ焼けのこったのは二階建の夕陽丘寮の一棟と住宅だけだったのだ。そのうち学院を再び開いてくれという声が、戦前に生徒だった人たちの間からわきあがった。再起の気力さえ失っていた理事長、院長の気持をゆさぶった。
 理事長と院長は決心した。決心しても、一切は戦火で無に帰し、閉鎖の時の生徒や職員は四散して行方もわからなかった。校舎もなく、ミシンもなく、先生たちとも連絡がたえていた。住宅を教室に使うためには、いつの間にかはいこんで来て住みついてしまった同居者たちに立ちのきを交渉しなければならなかった。たった一棟焼けのこっていた寄宿舎、夕陽丘寮は昭和十七年、資材の苦しい中を、理事長が建てておいたあの寄宿舎である。けれども戦時中に軍に転用され工員の寮になったままになっていたので、まず返還の手つづきをとらねばならなかった。

2 伊那からミシンをはこぶ
 終戦後、例によって食糧難、物資難で、学校の再建も非常に障害が多かった。建築をするにも統制経済の時代であったから、資材配給の許可を得なくてはならないし、教材も揃えなくてはならない。教材といえば、洋裁学校の経営に必要なミシンが四、五台、疎開先および住宅にあるだけだった。
 ところが戦時中、学徒報国隊を海軍衣料廠に派遣したとき、ミシンの供出を命ぜられた。そのミシンは百八十台にものぼっている。しかも戦争がすんだら返却するという契約書をとっている。理事長はすぐに出かけて行って交渉した。しかるに、ミシンは工員が終戦のどさくさに持ちはこんで、一台も残っていないという返事だった。残務整理の事務をとっていた係といろいろ交渉した結果、長野県の伊那松島に、高等女学校の学生報国隊が使用していた三菱の工業用モーター付のミシンが五、六十台あるから、それを代償としてうけとって、がまんしてくれないかといった。
 理事長が信州伊那に出かけたのは、全山凍りついた十二月だった。ところが松島の役場に行って話をしたがなかなかラチがあかない。
 二度目に役場に交渉に行き、ようやく伊那松島のさる民家の酒蔵にあずけてあることをたしかめ、そのミシンを譲りうけ、すぐに日本通運で貨車一台借りきり、つみこむのを見届けて、理事長は東京に帰って来た。
 ミシンが恵比寿駅についたのは四日目、工業用ミシンなので、スピードがありすぎて、学校では使用できないというので、近所の藤倉電線でそれをシンガーの家庭用ミシンと交換してもらった。
 このミシンがドレメ再建に重要な役割をはたしてくれた。

3 一月八日の入学受付
 住宅の門に「一月八日より入学受付」と紙に書いて予告を出した。地方からも、「いつ再開するか」「なぜ早く開校してくれないか」と熱心な手紙が毎日何十通と問い合せて来ていたし、なかにはわざわざ上京して聞きにくる熱心な人もあった。
 けれども焼けた東京に勉強のためとはいえ地方から出て来るわけはないし、熱心なのはほんの一部の人だけだから、せいぜい五十名も集まればいいだろうというくらいの気持しかなかった。新聞広告は不可能なので、ただ住宅前の予告だけに止めたのであった。
 昭和二十一年一月八日、寒い日だった。志願者もごく少数だろうからと、願書用紙も三十枚ぐらいしか用意しなかった。住宅の玄関に受付の机を置き、台湾に帰国できなくて住宅にね泊りしていた生徒を一人おいただけの、ごく手軽な準備しかしなかった。ところが門を開いてみると、すでに長蛇の列ができていて、目黒駅の方へつきるところなくつづいていた。行列を庭に入れてみたが、それどころで追いつくさわぎではない。受付をはじめても、列はへるどころか、ふえる一方である。
 行列の中から、出願者につきそって来ていた古い卒業生の姿を見つけたのでさっそく受付を手伝ってもらう。
 まるで火事場さわぎのさいちゅうにMPがジープでかけつけて、目黒駅までも長時間行列がつづいているが何事かとしらべに来た。事情がわかると、二度びっくりして帰って行った。
 この日集ったのが千数百名、もちろんその人たちすべてを収容する設備もない。もとの生徒、中退した生徒は優先的に入れることにして、千人でしめきったので、気のどくにも熱心に行列にならんだ人たちに、希望をはたしてあげられない方が出た。

4 住宅で授業再開
 ドレメは創立から二十年を経て、昭和二十一年四月、ドレスメーカー女学院の名に立ちかえって、再出発したが、とりあえず住宅の二階の日本間の座敷が教室になった。十二畳と八畳をぬいて、コの字型に廻された廊下も利用し、床の間に黒板をおいて教えるしまつである。創立当時のむかしに帰ったというわけである。
 けれども三人の生徒の熱心さに始められた自宅教授にくらべて、今度は数千数万の生徒、卒業生の燃えるような要請が、バックになっていた。十月の入学受付にもどっとおしよせる希望者をどう取捨選択するかにこまり、ついに考査によって入学させることにした。昭和二十二年四月の入学生受付には、この事情が知れわたったため、あの物騒な混乱がつづいて来た中に、校門や近所の家の軒下で夜を明かしたり、駅前の交番に泊めてくれと願い出たり、常識では考えられない熱心な人が何人もあった。寒さと危険、それをものともしない熱心さ、それほどにドレメは求められていた。発見して、家の中に入れたが、胸のあつくなる再出発当時の純粋な入学者の情熱であった。

5 復興の建設始まる
 教室の机を作りたくても、資材がない。さいわい山形県から来ていた生徒の家から材木を買って、作ることができた。それほど資材の入手困難な時代だった。
 まず夕陽丘寮を教室に改造することが急務であった。押入をはずして、四教室をつくった。舎監室が受付になり、洗面所が購買部に変った。理事長が事務の陣頭に立ったといっても、事務にも数人しかいない有様だった。
 この改造で隔日、それを午前と午後にわけた。千名の生徒を四部にわけ、四部教授によってまかなった。
 そのあいだにも、理事長は焼あとにバラック校舎をたてるために、東京都建築局と交渉を重ねていた。ところが建築局はにべもなく却下しようとする。理事長は係の役人に直接談判におよんだ。相手は
「資材は貴重物資だ。緊急やむを得ないものを先にしなければならん。花嫁学校には断じてまわせない」
 理事長はすぐに反駁した。衣食住の中でもっとも重要な衣服、日本再建に衣服を無視するのは、文化的にいってゆるせない。しかもドレメは花嫁学校ではない。洋裁は女性にとって必要かくべからざる生活技能であり、それを学びたい志願者が毎日のように、手紙をよこし、あるいは学校を訪ねて来ている。理事長は数万のドレメの要望を背景に、花嫁学校云々の役人を説きふせてしまった。この役人こそ後の参議院議員石井桂氏であった。
 かくて九月十一日、バラック校舎が落成し、十月の新学期に間に合わせることができた。
 建設の槌のひびきが、ドレメの空高くひびきわたる時がまたおとずれた。もちろん、順調ではなかった。いろいろの傷害が理事長の計画をはばんだ。区画整理のために道路を拡張するから、本建築を禁ぜられ、やむを得ず、かまぼこ校舎でがまんしなければならなかった。緑地帯のために三〇%しか建築をみとめないと制限されたこともあった。学校の大建築は郊外へ行けというのである。役所の机上のプランが、民間の建設をはばむのだ。
 けれども理事長の超人的な建設は、巨歩をふみ出したらとどまるところなく、建設また建設、飛躍また飛躍をつづける。

 

つづいて、「第2章 ドレメスタイルの再建」。

 

1 戦時中のおくれを取りもどすために
 戦争は女性の美しさを荒廃させてしまった。衣料不足と食料遅配、ヤミ市、復員姿の若者があらわれ、女性は強制されたモンペを、平和になってもはなそうとしなかった。そんな中で、授業が再開されたために、ただ洋装の技術を教えるだけならばいざしらず、その人に似合った、趣味の高いスタイルという院長の年来の抱負を実現する環境とはおよそかけはなれていた。
 院長自身、長いあいだ外国からの新しい感覚にふれることがなかったし、戦後の傾向を知る方法もなかった。
「まるで私たちは昔は目が明いていたが途中から盲目になった人間のように、過去の知識を生かすだけで、手さぐりの状態でした。私はいま一番必要なことは外国へ向かって窓をあけること、外の世界を見ることだと思いました。その時は日本に服飾というものは存在しなかったといってもいい位だったのですから」(『ひとすじの道』)
 院長は友人のアメリカ人に話して洋服の仕立てをさせてもらうことにした。住宅を接収されて、進駐軍の将校が住むことになったが、理事長がアメリカの大学出身であり、院長もアメリカに二度もわたって留学しているので、将校も親しみをもち、たがいに尊敬と理解をもって交際できた。ことに夫人は院長の専門的な研究に好意をよせて、海外の流行雑誌やスタイルブックをつぎつぎととりよせてくれた。仕立ての機会も自然と生れ、それがまた最近のスタイルブックや、新しい布地、附属品などにふれることにもなった。院長のゆたかな経験とすぐれた素質は、たちまちに新しい感覚を理解し、それがまたただちに生徒たちの勉強の材料にもなった。ふれるものすべてを吸収しようとする院長にとっては、その人たちの着てくる服の目新しさが、そのまま生きたスタイルブックの役をつとめるのだった。

2 スタイルブックと会誌の再出発
 戦前から発行されていた、ゆいしょある「ドレスメーカー・パタン・ブック」は二十一年の秋に復刊した。なによりも新しいデザインを見せることが急務だった。院長は現在の生徒をそれによって教育することはもちろん、全国に活躍しているドレメ出身者にはやく行くべき方向を示してやらねばならないと思った。
 院長のデザインを発表する「ドレスメーカー・パタン・ブック」発売の新聞広告が発表されたその朝、発行所の前に長蛇の列がつくられた。どれほど待たれていた出版か、予想もできない売行だった。食糧に餓えていた時であったからこそ、若い女性は洋裁によって自分の美しさを回復したがったのだ。
 戦後のものすごい洋裁ブームは、無責任な出版が横行していた。戦前のスタイルをかき集めて、スタイルブックと名づけて売り出すようなことが平気で行なわれ、そうした出版者自身、その周囲にも服飾の何かを理解している人がないという、はなはだしいのもあった。
 翌昭和二十二年五月、とぼしい用紙事情の中で「D・M・J会誌」が再出発した。休刊して四年ぶりだった。アート刷の写真のページをふくめて、わずか四〇ページという薄いものだった。
 会誌はこの年は一冊しか発刊されず、二十三年からは一年に二回ずつ発行されて、今日に至っている。なお復刊第一号には、DMJ校歌が掲載され、生徒の熱意によって生れ、高田三郎氏が作曲したのも、生徒たち直接のはたらきによるものだとつたえている。

3 戦後第一回のショウと展覧会
 院長が戦後の学生を教えてみておどろいたのは、いくらいいデザインを見せても、そのよさがわからないことだった。当時はショートスカートで肩にパッドを入れたフレンチスリーヴが流行していたが、戦争中の影響から、新しいデザインにすこしもとびついて来ようとしなかった。院長はこのときの困難さについて書いている。
「戦前は上級生があったために新入生はつねに上級生の服装を手本にして、似合う服とはどんなものか、どんなスタイルが似合うのか、趣味の良い服とはどんなものかというようなことを自然のうちに学び、目を肥やす手段となっていたのですが、今は上級生のクラスがなく、全校生徒が見習うものがなくなったわけで、教える上にも、それだけ困難がともないました」(『ひとすじの道』)
 服装は一〇〇の理論よりも、一つの実例を目の前にゆきつけて見せることによって指導する資格に訴える教育の方がよほど強いし、有効であることを知りつくしていた院長は、今一度ドレメという学校全体が美の苑となり、生きたスタイルブックになることが必要だとおもった。かつては天下にドレメタイプで鳴らしていたのが、戦争によって根こそぎにくつがえされ、枯らされてしまっていた。しかし、ふたたび服装美の王国を建設しなければならない。
 卒業生からは展覧会や指導者大会をひらいてくれという希望が圧倒的だった。昭和二十二年三月、師範科生が教生として指導した本科生の作品批評会が行なわれたとき、それを伝え聞いた地方の卒業生が遠いところをわざわざ上京して、参観したほどだった。卒業生もまた、院長によって新しい美の指標を知りたくてたまらないのであった。けれどもこのときには、校舎が整備していないために、展覧会さえできないありさまだった。
 理事長の大きな努力によって校舎が出来たおかげで、この年の秋には展覧会が開かれた。戦前学院の年中行事として開かれていた展覧会が復活したわけであるが、今回の場合は展覧会とショウを同時に行なった。
 ことに最終日の卒業生のための指導者会の席上のショウでは、院長は一つ一つのモデルについてかんでふくめるようにくわしい説明をしながらショウをすすめた。
 三日にわたる展覧会であったため、夜になると、盗難防止で、これは理事長が大いに頭を痛めねばならなかった。なにしろ校舎のガラスはぬすまれる、カーテンはもって行かれる。住宅にあったベッドを校舎にはこんで医務室用に使うことにしたら、そのマットレスが丈夫な純綿で作られていたために刃物で切って持って行かれたこともあった。そのために不寝番としてくっきょうな腕っぷしの強いのを数名、交番や警察にも連絡の手順をきめ、非常ベルをつけるほどの厳重な警戒ぶりであった。
 こうして復活最初のショウと展覧会はおわったが、学院の実力が進駐軍家族に知られて、国際的発展の第一歩をふみ出したこと、地方の卒業生と連絡がとれたこと、さらに理事長の動議で、指導者会で活発な意見が交換された結果、横のつながりを緊密に、各地にDMJ会支部再建の状況が明らかになり、芳和会結成の基礎になったことなど、収穫には、はかり知れぬものがあった。

4 アメリカの新聞記者の来訪と取材
 このショウを参観したスターズ・アンド・ストライプス紙の婦人記者が数日後改めて取材に来て校舎の写真などをとって帰った。このときは理事長がインタビューに出て学院の歴史と現状を話した。紙上ではアメリカにもない、おそらく世界で一番大きい洋裁学校として驚きの目で紹介していた。一九二六年の創立からはじめて戦争中の閉鎖、戦後の復興と現状のすばらしさを好意にあふれた筆致で紹介してくれていた。

5 ドレメの記章がヤミ値で売れる
 戦後の混乱に乗じて、ドレメの名声を利用して、一もうけしようとするインチキな事件が次から次へおこった。
 全く無関係なものが、ドレスメーカー女学院という学校を作ったり、「ドレメ全書」という出版で読者を釣ったり、院長の名をかたって、地方の卒業生に教材を売りつけたり、院長の著書の内容をそっくりそのまま借用して、自分の名で出版するものがあらわれたりした。ドレメ式裁断法とかドレメ式洋裁とか、まるでドレメの支部か分校を思わせる広告で、生徒を募集したものもあった。
 ひどいのは、杉野芳子女史講習会と宣伝して、講習生を集めておきながら、壇上にあらわれたのは、全く見もしらぬ人間であったこともある。大宮や千葉では、DMJバッジを売っていて、それを学校とは関係のないものが買ってつけてあるくといった事件もあった。院長の名で予約出版を募集し、いつまでたっても本がとどかない、こんなでたらめが次から次へと起ったのも、連絡のとりにくい地方に多かった。
 ドレメ式とよばれる院長の杉野式原型はこうした不徳義な方法でじゅうりんされていた。
 院長の原型は戦前からひろく公表されていて、決して「秘伝」でもなんでもない。ただ院長が苦心して創案したものであるから、ドレメに関係のない者の無断使用を禁じていた。これは著作権法からいって、当然擁護さるべき権利をまもっているにすぎない。が当時は世相の混乱に乗じて原型の無断使用が絶えなかった。

6 院長の地方接触
 昭和二十一年十月十日、院長は中部日本新聞社の新日本服装公募展審査のため、招かれて名古屋に行った。それを新聞で知った卒業生百余名は歓迎会を開き、その席上同窓会を結成、また学校経営者だけで、中部日本ドレメ学院連盟も生まれ、活発な動きを見せるにいたった。
 また東京に帰った院長は、二十五日には東北に行き、福島高等洋裁学院の展覧会にのぞみ、または同校およびその分教場福島県相馬、双葉、山形県米沢などからかけ参じた三百名の教え孫に講演している。
 翌年三月にはふたたび名古屋に招かれ、名古屋タイムス主催の洋裁講習会にのぞみ、二日間にもわたる学院のショウをもよおし、九月には岡山合同新聞社主催の洋裁コンクール審査のため、同地に下っている。帰途は神戸、京都、大阪で卒業生にむかえられた。
 洋裁ブームはますますさかんになり、各地のコンクールの審査を依頼されることが多く、院長はますます多忙になった。
 院長には絶えず卒業生のことが頭にある。学校を卒業したら、もうそれでいいというのではない、あくまでも才能をのばし、時代におくれぬようにやしなってやろうという温い親心がある。ドレメ出身者全体が感覚において、技両において、教養において向上することは、すなわち日本の服装文化の向上である。
 東京に帰ると、さっそく地方にいる指導者のための講習会のプランをたてた。この年の復活第一回の展覧会の後に指導者会がひらかれたが、翌二十三年八月には講習会を開いた。またこれにさきがけて同年の夏にはニューデザイン夏期講習会、二十三年三月には、卒業生のために「春のニューデザイン研究会」をひらいている。
 終戦直後から、海外の新しい傾向を知り、時代の感覚をとりもどそうと寝食も忘れて苦心した院長は、今は新しく得たもののすべてを、教え子にあたえようとしている。
 院長はいつも惜し気なく与える。院長から目をはなさなければ、時代からとり残されることがなく、いつも新鮮な感覚、最新の技術や技能を得ることができる。それは卒業生にとっても、実にはかり知れない支えとなっている。
 指導者講習会は一回だけで終らなかった。次の年も、次の年も開かれた。いや現在もなお、つづいている。別に通知を出さなくても、会誌に予告を出すだけで数千人が集まる年中行事になった。

 

 今回最後に、「第3章 第二期復興」に移る。

 

1 財団法人へ改組
 昭和二十三年七月三十一日、ドレスメーカー女学院は財団法人として認可をうけた。
 理事長は第一期復興完成を期して、財団法人へ改組したのであって、ここに第二期復興計画がすでにはじまっていることを、この年の会誌の「随想」に宣言している。
 財団法人の計画はすでに昭和十六、七年ごろにはじまっていた。しかし戦争にはばまれ、ふたたび第一歩からやり直さねばならなかった。しかも再建三年目には、はやくも焼失前の収容定員を確保できる校舎施設を完備してこのはこびに至ったのであるから、理事長がいかに献身的に経営し、よく功をおさめたかがわかる。このときにあたって、理事長はいうのである。
「本学院にしてみればこの法人組織はあまりに遅きに失した感がありますが、私個人の考えとして、発展させるだけ発展させて、一切が完成されたあかつきに、名実共に一大学園組織を作りあげたい念願で現在に至った次第でした」(会誌『随想』)

2 第二期復興計画
 第二期復興計画の最初は本校舎の建築で、昭和二十四年四月に完成した。
 校舎復興によって教室数が増加したために、定員はもとのままで、師範科は四部教授を二部教授として、隔日ではあるが全日授業が実現した。本科も二部教授に改められ、教授時間の充実したのが二十四年四月である。
 校舎の整備の背景には、増加率はげしい入学志願者の殺到があった。しかも地方からの入学志願者が増加するばかりで、入学は許可されても、住宅難にあえぐ東京に寄寓するところを発見し得ず、やむなく入学を中止する人が続出した。学院としても、校舎の完成に全力をあげているときなので、寄宿舎にまで手がまわりかねていた。
 けれども昭和二十四年四月には、従来の北桜寮、夕陽丘寮の一部に加えて、南桜寮の焼跡に松、竹、梅の三寮が完成して、目黒三田に三田寮が完成した。収容可能二百名に達して、地方の入学生に福音をもたらすことになった。

3 芳和会の発足
 昭和二十三年六月、総会を一月あとにひかえて、卒業生有志の発起で、DMJ支部長会議を召集した。きわめて短い日数しかなかったのに、各地方から大ぜいが上京して、協議した結果、在校生と卒業生をふくめていた従来のDMJ会から、卒業生の会を分離し独立することになった。院長の名前から一字をとって、その名も芳和会と称されることになった。
 芳和会はただちに活躍を開始した。ある学校経営者がドレメの名をつけて学校を建て、いかにもドレメ系であるように宣伝していたが、内容は低く、そこに働いていたドレメ卒業生は、母校の名誉をきずつけることを心配しながら、経済的な理由で、不本意ながら退くことができないでいた。この苦しい心中を訴えられた芳和会では、さっそく適当なところに就職のあっせんをした。
 またある市で、市の名を冠したドレメが、二人から届け出されたことがあった。県庁では芳和会にどちらの方に認可をあたえるのが適当であるかと、ていねいな問合せがあった。県庁の役所らしからぬ民主的な態度も好ましかったが、芳和会では両者についてよく調べたところ、たえず勉強して実力を有する側が、市名をつけた名前を辞退すると芳和会に申し出た。けれども良心的で、実力のある方が適当であることは言うまでもないので、もう一方に遠慮するように勧告して、解決を見た。
 芳和会がとくに力をそそいだのは、例のインチキ学校の横行に対する対策であった。ドレメ系洋裁学校と称して学校を開いている人、またはこれから開く人は、芳和会の審査委員会にかけ、その審査を通過した学校には、母校が責任もってできるだけの援助をすることになった。審査の条件は、設備の大小、生徒数の多少を問わず、母校と緊密に連絡をとって、良心的に教授法の進歩につとめるもの、ドレメ精神を汚さぬように学校を経営し、生徒を指導するものとした。

4 ティナ・リーサ賞
 昭和二十四年二月はじめ、院長はミセス・ティルトンから手紙をもらった。その手紙こそ、戦後の服飾界に大きな刺激をあたえたティナ・リーサ・デザイン賞設定について、相談にのってくれるようとの依頼の手紙であった。
 ティナ・リーサ女史が日本に来たのはこの年の一月で、世界旅行の途中、パン・アメリカンのエア・ラインで羽田に立ちよっている。女史はアメリカのデザイナーとしてはトップ・クラスに位していた。
 ティナ・リーサ女史は日本古来の織物の美しさに感激するとともに、そのすばらしい技術が衰えて、ほろびて行く運命にあることを知ると、賞金一〇万円を提供して、日本の伝統的な織物の美しさを、洋裁の感覚で生かした新しい日本のデザイナー発見に使うことを希望した。そしてすべてを友人のミセス・ティルトンにゆだねて、帰国したのだった。
 ティナ・リーサ女史の意図したことは、院長が念願として実現しようとしていることがらに全く一致していた。戦前の欧米視察旅行から帰った直後に院長が開いたデザイン展覧会は、時局がら更生服という名をうたったもので、実際はめいせん、くるめガスリ、お召、その他の伝統的な着物生地を駆使した作品の発表であって、今日流行の言葉でいえば「日本美の再発見」をくわだて、しかも成功をおさめたといえる。戦争中から戦後にかけての更生服が全国を風靡したのは、この展覧会の成功によるものといってもいい。
 戦後に至って、伝統的な日本の織物によるデザイン・ショウと展覧会を催してアメリカ側の好評を得た。デザイナー養成科設置の意味もまたここにあった。
 ティナ・リーサ女史のよびかけに、院長はよろこびにたえぬものがあった。
 院長は早速勇躍してティナ・リーサ賞に参画し審査をひきうけたのだった。
 全国から公募された作品は日本側審査員によって二百点が選出され、次に米国に空送され、ティナ・リーサ女史をはじめとするアメリカ側審査員(主にファッション雑誌の編集者、新聞のファッション担当記者)によって、一等ティナ・リーサ賞、二等アメリカン・スタイル賞を決定する。
 日本側審査員は院長の他に徳川元侯爵夫人、蜂須賀元侯爵夫人、ティルトン夫人、沢田夫人、服飾方面からは田中千代女史、CPOデザイナーの山中喜夜生夫人、板野新次郎氏、画家の猪熊弦一郎氏、上野博物館の原田博士、アメリカン・スタイル雑誌社貴布根氏、それに官署関係者であった。後に伊東茂平、中林洋子、中原淳一、東郷青児諸氏が参加した。
 昭和二十四年を第一回として毎年一回続けられることになり、第一回には学院関係のデザイナー五名がそれぞれの部門で入賞した。
 昭和二十五年の第二回発表では、デザイナー科在校生がティナ・リーサ賞に入り、十万円を獲得した。
 この年の入選佳作二十四名のうち、十名がドレメから選にはいった。その発表に際して、日本で最初のファッション・モデルを使用することになって、一般から募集した。院長はその審査に加わり、ファッション・モデル誕生に一役を買ったが、この時えらばれた中に伊東絹子さんがあった。
 このティナ・リーサ賞はにわかにデザイン熱をわが国にまきおこした。その服飾界に投じた影響は決して軽くなかった。

5 デザイナー養成科再開
 学校は年ごとに発展して来たが、単に正式入学して勉強に専念できる生徒ばかりでなく、さらにひろく一般の要求に応じて、ドレメによるすぐれた洋裁学習の道もひらくことがいろいろと考えられ、実現されている。
 昭和二十二年には聴講生制度がしかれ、翌年四月には夜間部がおかれた。
 こえて昭和二十四年四月には、さらにドレメ式の洋裁を学びたい人で、通学できない人のことを考えて、通信教育科を設置した。
 こうした発展の中で、生徒のあいだに特に要望されていたのは、デザイナー養成科の再開であった。前から何とかして再開したいと口にされていたが、殺到する入学生におされて、なかなか教室のやりくりがつかなかった。念願がなったのは、昭和二十四年十月、かくてドレメの希望であり、誇りでもあったデザイナー養成科が再開された。
 出発にあたって、定員は三十五名を予定されていた。けれども第一回の入学者は九十名に及んだ。生徒たちがいかにデザイナー科を待ちのぞんでいたか、この一事をもっても明らかである。そのためにやむを得ず二部教授を行なうありさまであった。

6 「ドレスメーキング」発刊
 昭和二十四年に忘れることのできない出来事は、「ドレスメーキング」の発刊である。
 ドレスメーカー女学院出版部が新設されたのは、はるかに早く昭和十一年である。院長の著書「洋裁の秘訣」を出し、「ドレスメーカー・パタン・ブック」を定期的に発行したのみで、戦争をむかえた。院長の「ニューデザイン独習書」はホームライフ社から発行、戦後は「ドレスメーカー・パタン・ブック」さらに「ドレスメーキング」は鎌倉書房から創刊されるにいたった。
 なぜに出版部を活用して、大々的に出版活動をしないか。それに対して、理事長は『私学経営に生きる』の「私の経営哲学」に含蓄の多い解答を与えている。それによると、洋裁学校で多角経営をやり、服飾雑誌まで発行しているところもある。大きなバックのもとに雑誌を出版したら、うまく行くはずであるし、利益をあげることができよう。けれどもうまく行くとはかぎらない。
「この出版事業という仕事が怪物で、これだけ事業に必死になっても、赤字倒産する出版社がある。専門家にして然りである。学校経営者が、出版に必至になったら本来の学校はどうなるか、出版は成功しているが、学校の方は物凄い負債だなどということでは困る。出版という仕事は、やっている本人も取引先も純粋の商人である。商人でなければやれない仕事である。そこに教育者や学校経営者とは、しごとの上で、性格上大きな差異がある。これは区別しなければいけないというのが、私の信念であった」
 こうして教科書発行さえ松柏社がひきうけている。「ニューデザイン」「ドレスメーキング」ともに、学校の外で発行、経営されているが、「ドレスメーキング」はトップクラスの服装雑誌として、今日、ますますはなばなしい飛躍をとげた。院長の責任編集のもとに、院長に命名されたこの雑誌が、服装雑誌という領域を確立して、ジャーナリズムに不滅の足あとを印するとともに、ディオール賞、バルマン賞のようなデザイン・コンテストをはじめとする、新人デザイナーの発掘と養成、ついには海外版の発行など、服装文化に貢献したところは少なくない。

7 院長病気でショウ延期
 終戦後、巨人的な健闘をつづけて来た院長は、昭和二十三年十月、ついに慶応病院に入院した。過労が重なって、胃の消化がわるくなる一方だったためだ。
 慶応病院に入院したときは、極端な衰弱状態に、吐き気、頭痛、発熱をともなっていた。それほどまでに院長ががんばったのは、十一月八日、戦後はじめて学校から外へ進出して、共立講堂でショウを開くことになり、その日もまじかくどんなことがあっても初志をつらぬきたい一念からだった。
 院長入院ときまり、計画されたショウは中止ときめ、共立講堂との契約は取消した。慶応病院では病因がわからなくて、診断がつかないで、時間を空費させていたが、精密検査の結果、ようやく、かい虫のいたずらと判明した。戦争で国内のサントニンのストックが底をつき、寄生虫が野放しにはびこった時で、入院患者の半数以上は寄生虫によるものだった。
 ところがかい虫駆除は、病院で手をつくしてもなかなか困難で頑強、やっと退院したのは十一月終りであった。そのためにショウはもちろん、展覧会も中止延期のやむなきに至ったが、院長はしばらく伊東の別荘で静養する予定のところ、十二月四日から三日間、大阪三越で行なわれた主婦之友社主催の婦人服講習会、作品の展示会にどうしても行かねばならないことになった。
 こうしたむりは、翌年二月末、講談社の洋服型紙通信講座執筆のためのむりがたたり、また発病した。こんどは気管支炎で、主治医に絶対安静をいいわたされた。三月に延期していたショウは、どこか講堂をかりてやるつもりだったのに、いつ回復するか予定がたたず、ついに学校で行なうことになったが、時間はせまる、回復ははかばかしくない。主治医には内密で、床を起き、校舎の院長室の長椅子に寝て、さしずをするといった状態だった。
 三月十六日から二十二日の間、会場は仮校舎、吉田謙吉氏の手になる長いプラットホームの途中二ヵ所に中間ステージを作った会場もできあがり、ショウの開催を見た。このショウはアメリカのニュース社が映画にとり、米国に紹介された。
 院長の九州旅行もまたこの病気のため中止となったが、しかしドレメ繁栄時代の前夜、百倍の元気と健康で立ち上るための休養であったとも言えよう。

 

 これで第4編は終わり、次回は「第5編 短期大学創設以後 昭和二十四年―昭和三十年」を覗いてみたい。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー