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「上野駅100年史」

COLUMN「上野駅100年史」その2

VOL.39
小川 真理生さん

ここでは、「上野駅」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第39回「上野駅100年史」その2

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 今回は前回に引き続き、「上野駅100年史」の「7.公共企業体『日本国有鉄道』発足」を見てゆく。

国鉄職員の大量人員整理
 戦前の鉄道省は、戦後は運輸省に変わっていた。昭和24年6月1日、運輸省管理のもとに「日本国有鉄道」が公共企業体として発足した。同時に東京鉄道局の下部機関として「上野管理部」が設置された。上野―取手間の常磐線が電化されて電車の直通運転がされるようになった。新体制が発足した中で、7月4日と13日の2回にわたって、上野駅員の人員整理が行なわれた。運輸省は「国鉄白書」を発表して、インフレーションのために多額の赤字経営に至ったこと、第3次にわたって運賃値上げをしたのにかかわらず、新物価基準が戦前の数倍となったために、せっかく値上げした運賃が、実賃は物価水準よりも引き下がっていることを示したのである。鉄道施設の復興、輸送力の増強、人員の整理、運賃の改正、むずかしい問題を多く抱えて、復興5カ年計画が動き出していた。
 国鉄の職員は、外地からの引揚げ者の受入れもあって急膨張していた。その数は62万3000人余にも達して最大の頂点に達していた。他に受入れの企業もないために、政府の要望によって一時的に、これらの人を採用したのが巨大職員数となってしまった。戦時中には、鉄道の売上げ額から12%も軍事費に醵出して国家財政を支え、戦後は復員者の採用により、失業を食い止め、政府に協力してきた。だが復興途上の鉄道が「国有鉄道」と改めても、そうたやすく解決できなかったのが人員の問題であった。
 その結果、大量の人員整理が行なわれ、第1次から第3次までに9万5018名が国鉄を退き、50万6734名が国鉄に残った。国鉄離職の中から3439名が鉄道弘済会に転職した。国鉄離職者からすれば微々たる数字であったが、弘済会にとっては一挙に5割増しの職員を採用することになった。鉄道弘済会は昭和7年に発足以来、売店、置台、立売りに加えて、自転車の一時預り、手荷物の一時預りにも業務拡大していた。

鉄道事件が多発する
 国有鉄道になってから、鉄道に関する事件が多発していた。6月10日の“東神奈川人民電車事件”、7月5日の“下山国鉄総裁死亡事件”、7月15日には“三鷹駅電車暴走事件”、8月17日には、東北線“松川駅付近での列車転覆事件”などが矢つぎばやに起こった。
 これらの事件と、国鉄の大量人員整理は、やや”関連“があった。下山事件、三鷹事件、松川事件のあとに、労働組合の指導者を含む人々が追放される結果が生じていたからである。
 下山事件は常磐線の北千住―綾瀬間の線路上に、死体が50mにわたってバラバラになっていた事件。松川事件は貨物列車の転覆事件であるが、国鉄職員の解雇に反対する一部過激派の暴力行為として、多くの人が逮捕されるという、長期にわたる論議を呼び起こした。上野を出て行く2つの線区での事件で、国鉄、検察、報道などの人々が、現場と上野駅を往復して事件の流れを追ったのである。

長距離急行列車が復活する
 各種事件で騒がれている間にも、8月15日からは、京浜東北線の電車に「婦人子供専用車」というのが1両の半分連結されて走るようになった。9月14日からは東京鉄道局管内の急行券は、列車指定をせずに、自由に発売されるようになった。15日からは、列車の時刻改正が実施され、従来よりも5%のスピードアップとなった。東北線、奥羽線、上越線のほか、羽越線経由の秋田行、北陸線経由の金沢行、などの急行も所要時間を短縮した。10月21日には、上野―金沢間の急行が北陸線を経由して大阪まで延長運転されるようになり、かつての長距離列車が復活した。12月1日からは上野―仙台間に準急行が1往復増便となった。戦後の荒廃の中から、着々と鉄道の復興が進んでいたのである。
 昭和25年2月1日、乗車券の不正防止のために、せん孔式検札鋏を使用開始。そのうえで旅客輸送のサービス向上運動を実施。運動の一環として国鉄推薦旅館の指定を行なった。4月1日、旅客運賃改正、遠距離運賃を低減化、急行料金の通行税を廃止した。4月15日、上野―青森間の東北線急行列車に食堂車を復活、戦後になってから上野を出る列車では、初めての食堂車連結となった。5月9日、急行券と準急行券の自由発売が再開される。
 8月1日から国有鉄道の組織と規程が改正となって、鉄道局と管理部が廃止され、新しく鉄道管理局が設置されて、上野駅は東京鉄道管理局の所管となった。9月10日には、駅連合区規程が制定されて、上野駅は幹事駅となる。10月1日、再び時刻改正となり、急行列車が増発され、速度向上(スピードアップ)される。特別2等車も登場してデラックス化した列車が連結され、客車指定券も発売された。常磐線経由の上野発、青森行の急行には1等寝台車が連結された。この寝台車は津軽海峡を連絡船に積載されて、函館からは札幌まで運転されるという便利な列車であった。ほかにも上野発の列車で食堂車や寝台車が連結される列車が増発されるようになった。

急行列車に愛称が登場する
 11月9日からは、急行列車に愛称をつけるようになった。「青葉」「みちのく」「北斗」「北稜」、12月20日からは「鳥海」も加わり、にぎやかな列車名が登場した。蒸気機関車に愛称を表現したヘッドマークが飾られて上野駅を発着した。
 昭和26年2月24日から2等の季節割引乗車券が発売された。4月1日からは、再び旅客のサービス向上運動が始まった。5月29日、国電のドアが、緊急時に手で開けられるように改良された。これは前月24日に、横浜の桜木町駅で国電が火災を起こし、105名が焼死したために、急遽ドアの改良と、車両相互間に幌を設けて通路とし、通行ができるようにもした。
 8月になって上野―長瀞(ながとろ)間に”自然科学電車“を運転した。上野から熊谷まで高崎線を使い、熊谷から秩父鉄道線を使って長瀞に行く経路で、国鉄線から私鉄乗入れの珍しい運転となった。10月31日から特別2等車の客車指定券を廃止して、地帯別2等車料金を新設した。11月1日には再び運賃改正、旅客26%、貨物30%の値上げであった。12月10日、荷物専用列車の運転が始まり、上野から東北各地へ向かった。

改札口の上に大きな壁画ができる
 12月27日、上野駅の中央改札口の上部に大壁画が完成して除幕式が行なわれた。壁画は「自由」という題名がつけられて猪熊弦一郎の筆による大作であった。ブルーの背景に、スキーと男女、牛と牧場、リンゴを穫る女性、馬に乗っている人、温泉につかる人、裸女、鮭、犬、雨傘を持った人、などの素材は東北や北海道を象徴して描いた壁画であった。縦6m、横27m余りもある大壁画は上野駅の新しいシンボルとなった。
 この壁画の制作を思いついたのは小林利雄という27歳の青年で、昭和23年3月4日に、高橋亀吉駅長(第14代)に願い書を提出したが、何の進展もなく、その後も再度の願いを出し、4度目の願い書を出した昭和26年6月21日になって、3年余ぶりに許可されて制作にとりかかったのである。このとき、駅長は松村弥太郎(第15代)に代わっており、国鉄の復興も軌道に乗って落ち着いてきたこともあって、壁画設置が許可されたようだ。小林利雄は30歳の青年となっており、この壁画の計画に積極的に取り組んだ。まず画壇の鬼才である猪熊弦一郎に制作の依頼交渉を行ない、猪熊画伯は通産省工芸指揮所の一棟を借り、ストーブを焚きながら、進駐軍から入手したペンキを使って、2人の助手とともに2ヵ月かかって大壁画を完成させた。この壁画には3社の広告がつけられていた。壁画は上野駅の中央広間を見おろして、復興期の上野駅を明るくしたのである。
 この年12月31日に国電の大晦日終夜運転が再開となった。

高崎線に湘南形の電車が登場
 昭和27年4月1日、講和条約が発効して日本は独立国となる。これに伴い、従来、上野にあった進駐軍鉄道輸送事務所(RTO)が廃止されて、進駐軍関係の輸送は国鉄が取り扱うことになった。そして駐留軍と名称も変わり、専用列車を特殊列車として、1,2等の急行券の発売駅、発売枚数を限定して発売した。その特殊列車は横浜→上野→仙台→青森→札幌間に運転となった。
 一方、この日より大宮―高崎間が電化完成となり、上野から高崎までの間に電気機関車に牽引された列車が運転されるようになった。蒸気機関車の汽笛に混じって電気機関車の汽笛も聞こえるようになった。9月1日より時刻改正、常磐線経由の上野発、青森行急行「きたかみ」の運転開始。上越線の上野―新潟間に急行「越路」の登場。10月1日から上野―熊谷間の高崎線に初の電車が2往復運転される。従来は東海道線に使用されていた湘南形電車が上野駅にも登場して、重厚味のある蒸気機関車に混じって並ぶ光景は、上野駅の雰囲気にそぐわない感さえした。

東北を宣伝したラジオドラマ
 鉄道が復興することは経済が復興することであった。ラジオ放送が娯楽として受け入れられて、相撲放送やドラマに人気が集まった。NHKラジオから「君の名は」が放送されて、このドラマは婦人層に紅涙を絞らせたため、午後8時30分になると銭湯の女風呂がガラガラになるという珍事が起きた。同時刻、前年に放送を始めたラジオ東京(現・東京放送ラジオ)が、美空ひばり主演で「リンゴ園の少女」を放送して、若い人々に人気を博した。この番組の主題歌「リンゴ追分」がヒットしてから、東北へ旅行する人が増えた。「君の名は」のドラマは映画にもなり、佐渡や北海道の観光地を有名にして旅情を誘った。これらの観光地へ向かう上野発の急行列車は、相変わらず混み合い、通路に新聞紙を敷いて座り込む旅であったが、これが当たり前の旅事情だったので、お互いに譲り合いながらの旅を楽しんだのである。

不忍池とアメヤ横丁
 上野駅から松坂屋のある広小路までの大通りの歩道には、露店が立ち並んでいた。夜ともなると裸電球の淡い明かりが舶来ものの商品を照らしていた。焼け跡が残る町をにぎやかに活気を見せたのは露店の並びであった。終戦直後の食糧欠乏時代に、農地に転用して米を穫っていた不忍池は、一時は野球場にする話があったが、大反対にあい、失業対策事業として復旧されて、池には水が元通りに注がれた。池の南側には音楽堂の建築も始まった。コンクリート造りの音楽堂が完成すれば、かつて岩倉具視が「東京市内で最も景色のよい場所だ」といった不忍池によみがえることになる。
 東北から上京した人が散歩したり憩う不忍池、土産物を買い求める場所が上野の露店であった。それにもう一つ、アメ横は、上野―御徒町間の高架橋の下に進駐軍の闇物資を売ったり、飴、菓子類を売っていることから“アメ屋横丁”と呼ばれるようになり、これが略されて呼ばれるようになった名称である。露店が立ち並び、これが食糧を求める人々を呼び、上野を一層にぎわう要因の一つになっていた。

「旅行者救護所」が初めて設けられる
 昭和28年1月15日、再々度の員賃改正、このときから、2,3等普通定期が制定される。2月1日、NHKテレビ本放送を開始。受像機が上野駅前の商店のウインドーに設置されて公開となり、連日連夜、黒山の人だかりが受像機を取り囲む。
 8月1日より上野駅周辺にたむろする戦災孤児や浮浪者を援護するためと、一般乗客の旅行中の傷害の応急手当てや金銭トラブルの相談を目的とした「上野旅行者援護相談所」が駅の大階段脇に設置された。国鉄が場所と設備を持ち、これにかかる光熱、水などを負担し、医師と看護婦の常駐費用を鉄道弘済会が負担して運営するもので、上野駅設置が全国のトップを切った。上野駅は乗降客の多いことから利用者も多く、とくに冬のスキーシーズンになると、東北地方のスキー場で骨折した人が列車から降りると、直ちに担架で救護所に運ばれて医療の手当てを受けることになる。上野駅特有の光景である。また、帰りの乗車賃が足りなくなったからと相談に訪れる人もいる。旅行者援護施設の好評につれて、やがて東京、新宿、名古屋、静岡、金沢へと広がろうとしていた。この旅行者援護相談所は利用者には無料だが、国鉄と鉄道弘済会の共同費用負担であり、鉄道弘済会は駅の売店で得た利益を旅行者援護のために注ぎ込んでいた。

旅の知らせは電報の時代
 12月14日、上野駅で扱う公衆電報用の印刷電信機(テレタイプ)の使用が始まる。上野駅には、東北方面から多くの人々が到着する。しかし、川の流れのように、もとの水(人)にあらず。人生で初めての旅の人もおれば、10年に1度の上京の人もいる。たまに旅に出る人同士が上野駅の雑踏の1人になるわけで、旅に不慣れの人が帰るときに、わが家に向けて公衆電報を申し込む。たとえば「アスアサツク、ムカエタノム」という電文が多かった。東京からの土産物と土産話をいっぱいにして故郷へ帰るのに、電報は先触れになっていたのである。
 機械化が採り入れられても、電話は市内が中心で、長距離電話を申し込んでも3,4時間も待つのはざら、混むときには半日も1日も待つこともあったので、電報はよく利用された。巷では菓子類も入手できるようになった。米は統制中だが茨城や成田方面から、かつぎ屋によって、汽車で上野へ着き、都内で売られていた。

高架線ホームが新設となる
 昭和29年正月早々、皇居に参賀の人が大群衆となって、混雑に推されて16名の死者を出した。
 それから1週間後の1月10日、中山式の10円区間、自動乗車券発売機が5台、上野駅の電車出札所前に登場した。4月15日、上野―東京間に線路を増設し、高架第5ホームの新設に伴って、常磐線の電車を朝夕のラッシュ時に26往復、上野から延長して有楽町までの運転を始めた。同日、上野駅の汽車ホームから、羽越線経由による青森行の急行を臨時に運転開始した。

“集団就職列車”が運転を始める
 京浜地帯の工場や商店の採用係が、東北の農村を訪ねて、職業安定所や中学校を回っていた。“金の卵”と呼ばれる中卒者の労働力を確保するためであった。高卒者もいたが、応募者が多かったことから、各地から臨時列車を仕立て出発し、上野に向かった。
 上野には連日、集団で就職する若者がホームに降り立った。いつしか“集団就職列車”と呼ばれるようになり、これが上野駅の”名物“となった。若者は都会への期待と不安を抱きながら、ここから巣立っていったのである。

洞爺丸事件で遺骨安置所を置く
 9月26日、午後6時39分、青函連絡船の洞爺丸(4337ton)が台風15号のさなかに出航して、荒天の中で航行不能になり、SOSを発したが、10時半ごろに座礁したうえ、七重浜から数百m離れた海上で沈没した。乗客1000名以上が遭難して国鉄史上最大の惨事となり、国鉄本社内に対策本部が設けられた。
 遭難者の遺体は現地で火葬したのち、東京方面の乗客の遺骨は列車で上野駅に送られて、3等待合室に特設した遺骨安置所で遺族の到着を待った。焼香の紫煙の立ちこめる構内には「洞爺丸事故相談所」が開設されて、遺族との相談に当たった。

“出世列車”となった急行「鳥海」号
 10月1日より時刻改正により、常磐線の上野―仙台間に急行「松島」、東京―青森間に、急行「十和田」、東北線上野―仙台間の急行「青葉」に秋田行を併結してスピードアップをはかり、昼行でその日に着くようになった。さらに上野―金沢間に急行「白山」、上野―長野間に臨時準急行「白樺」、上野から上越・羽越線回りの青森行に不定期急行「津軽」など、多彩な愛称のついた列車が登場した。
 その中で奥羽線の青森行急行「鳥海」は連日満員の乗客で上野を発った。奥羽線を走るこの急行は、花形高級列車であった。この列車に乗って土産物を抱えて郷里に帰ることのできる人は、都会で出世している人ということになる。そこで「鳥海」号は、いつの間にか“出世列車”と呼ばれるようになった。
 上野駅で列車に乗るときは、改札口前の広間で列をつくって並び、改札が始まると、大急ぎで目的の列車めがけて走るのが当たり前になっていた。この制度は戦前から続いたものだが、11月19日からは全列車が、常時改札制に変更になって、いつでも自由に、目的の列車に乗ることができるようになった。

気動車列車が登場する
 昭和30年2月16日から、常磐線の上野―水戸間に気動車が運転されるようになった。「ときわ」「つくば」の愛称で各1往復が蒸気機関車に変わって走り出した。3月18日からは、上野、黒磯と日光間に快速気動車が2往復運転がされるようになった。7月1日、1等寝台車を廃止して2等寝台車として、A,B,Cの3種類が発売された。同時に北海道周遊券の発売も行なう。7月17日には上野鉄道案内所を「上野鉄道総合案内所」に改称となる。
 上野駅に気動車が登場したことで、蒸気機関車、電気機関車、電車と多彩な乗り物が発着して、ホームは活気が出てきた。それだけ旅客利用者も増加したわけで、多くの人を東京地区へ運んでいた。
 東京の人口は増加の一途をたどり、終戦時、約200万人だったのが、約800万人にふくれ上がっていた。食糧事情の回復、経済状態の復興が人口増加につながったわけで、東北地方からの人が働き口を求めて上野に降り、各所に散っていた。東京は地方からの人々の集まりで成り立っていた。

“望郷”を唱った歌と鉄道の郷愁
 こうした地方の人々に呼びかけるかのように、福島出身の春日八郎の唱った「別れの一本杉」が大ヒットした。叙情のは詞は茨城県笠間出身の高野公男(きみお)が書き、哀調のメロディーは船村徹が作曲した。皮肉なことに、この歌がヒットしたころ、高野は結核に倒れて、水戸の国立病院で病床に臥していた。余命いくばくもない高野は「早く帰ってこ」も作詞しており、船村徹が作曲した。東京へ出て行った人に故郷のよさを説いて、帰るようにすすめている望郷の歌であった。
 しかし、歌のヒットとは裏腹に、高野は昭和31年9月8日に26歳で死去した。この年、「愛ちゃんはお嫁に」が、鈴木三重子が唄ってヒットした。鈴木は宮城県出身の鈴木正夫の娘だった。続いて三橋美智也が「リンゴ村から」を唄ってヒットさせた。三橋は翌32年に「哀愁列車」を大ヒットさせるのであるが、これらは、どれもが望郷の歌であり、都会に出た若者に故郷を思い出させる歌として、別れと再会を盛り込んでいるのがヒットの要因となっていた。それに「リンゴ村から」では“小雨のホーム”や“上りの夜汽車のにじんだ汽笛”が出て、「哀愁列車」では“旅をせかせるベルの音、辛いホームに来は来たが”とか“旅にのがれる哀愁列車”というように鉄道をふんだんに採り入れており、この詞が、そのまま上野駅にも当てはまる雰囲気があって、なおも郷愁を盛り込んでいるのである。
 昭和31年から32年にかけて、こうした望郷の歌が唄われたのは、いかに若者が都会に憧れて、故郷を離れたかを物語っていた。鉄道の復興は地方の若者を都会に吸引し、都会の人口を膨張させたために、地方には「過疎」の言葉が用いられるようになった。

 

 筆者も地方出身で、現在、東京に住まいしている身、わが人生で上野駅は何度も通過した地であるから、さまざまな思いがめぐる。占領期を考えるとき、上野駅はいろいろな意味で、思い起こさせねばならない地点であろう。そこで、今回は「上野駅100年史」の占領期の部分を紹介した次第である。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー