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「米軍に接収された築地の海軍経理学校」

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.32
「米軍に接収された
築地の海軍経理学校」

 今回は、勝鬨橋を月島サイドから渡り始める。

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 都営大江戸線の「勝どき駅」で下車、勝鬨橋に向かった。まずその東詰からポンポン船が動き回る隅田川越しに築地市場の、遠く向こうに東京タワーがきれいに見えているのを眺めながら、橋を築地方面に足早に渡った。


勝鬨橋が開いているところ(隅田川上流を望む)
(「橋の資料館」ホームページから)

 西詰の勝鬨橋のたもとに、跳開橋として東洋一の規模を誇る「かちどき橋の資料館」があり、その前には、「海軍経理学校跡の碑」が建っている。なお、その後ろには、宿泊施設(年末年始は市場関係者のみ)および福利公施設を兼ねた「築地市場厚生会館」が構えている。それは今歩きて来た晴海通りから「勝どき門」を入って、左に隅田川を背景にある。
 右は立体駐車場のビルだが、ここが海軍経理学校のあったところ。ここに刻まれた歴史を紐解こう。


  • 勝鬨橋と厚生会館

  • 勝どき門手前にある海軍経理学校の碑と、
    その右向うに築地市場の立体駐車場が見える

 幕末には築地軍艦操練所があり、教授として勝海舟、ジョン万次郎がいた。しかし、1867年には火災で焼失してまい、日本初の本格的ホテル「築地ホテル館」が翌68年に建設される。それも1872年には銀座大火で類焼し、わずか3,4年で幕を閉じる。


築地ホテル館

 その後1907年に、この跡地には、海軍経理学校が創設される。同校は海軍の主計科要員を養成する教育機関かつ主計科の専門教育を施す術科学校でもあり研究機関でもあった学校で、海軍が解体される1945年まで続く。出身者として、中曽根康弘がよく知られる。
 戦後には、GHQに接収されるわけだが、それについては、同校第36期のホームページに寄稿された山田泉さんの想い出を紹介する。

1. 敗戦による占領管理の概観
 連合国の占領は、本土の場合昭和20年2月小笠原に始まり、昭和27年4月末に終った。
 日本の占領は、極東委員会(在ワシントン)を形式的決定機関とし、実質的政策は米国政府によってなされた間接統治方式がとられ、連合軍最高司令官が終戦連絡事務局などを通して日本政府に伝え、日本政府はこれを法律、命令、通達などの形式を通して国民に伝える方式であった。
 当初アメリカ軍は約50万であったが、漸時縮小し、昭和23年には、本土の場合10万余に減少したが、朝鮮戦争の頃再び漸増して占領終結近くの26年末には26万であった。英連邦軍(英・印・オーストラリア・ニュージーランド)は中国・四国地方に駐留したが、アメリカ軍に独占されたので間もなく帰国した。
 日本占領管理機構の中で最も日本に強い影響を与えたのは総司令部(GHQ)であった。GHQのスタッフは局長レベルは殆んど軍人で、課長以下事務職員はかなりの数の文官がいて、GHQによる戦後改革は極めてドラスティックなものであり、その非軍事化、民主化政策は各分野に亙って矢継ぎ早やに絶対的権限をもって実施されたが、彼らもこれまでの研究成果を実地に試みるまたとない絶好の機会なので真剣そのものであった。
 日本人の対応を見るに、一般の人々は、開放的、民主的、自由主義的性格の占領軍将兵に次第に好意を持つに至り、彼らの高い科学技術、豊富な物質文明、近代的生活様式に密かに憧れを抱いたのだった。概して云えば長期的にみてプラス面が多かったと思われている。

2.築地の海軍経理学校に首都治安米憲兵隊進駐
 昭和20年9月12日米騎兵第1師団ラブキ少佐以下50名が警視庁に到着し、庁内に進駐する旨宣告して、正面前に看板を掲げMPを立たせ、これから東京23区内の治安は連合軍のうち米騎兵第2旅団が担当することにした。
 米軍の東京地区憲兵司令部 (Provost Marshal’s Office Metropolitan Tokyo Area 略称 PMO) はGHQに直属し、憲兵司令官は大佐、副司令官は中佐で、PMO指揮下のMPは第720憲兵大隊に所属していた。同憲兵隊は昭和17年1月末 米メリーランド州で編成され、同年7月から18年10月まで、オーストラリアに転進し、19年12月まではニューギニア、20年9月末まではマニラに駐屯、9月22日に第8軍麾下の部隊として東京に進駐し、築地の海軍経理学校(いわゆる Camp Burness)に駐屯した。
① 編成=同隊は本部中隊(75名)、A・B・C・D4個中隊(各隊120名ずつが一日3交替勤務)。キャンプバーネスの由来は、昭和18年4月ポートモレスビーに犯人護送中、搭乗機が墜落、殉職した Frederick A. Burness 憲兵軍曹の名をとったものである。
② 任務= PMOの指揮下で米極東軍と国連司令部の警備、米軍の人員・財産の保護、家族・住宅を含む米軍施設の警備、交通整理、市内のパトロールを含む東京地区の治安維持、軍法規の執行、違反者逮捕・留置・取調べ、重要人物護衛その他であり、また本部中隊はMPパトロールの車輌整備、通信機器の整備、補給など必要なすべての支援業務である。
③ 施設=キャンプバーネスには大隊本部(Battalion HeadQuarters) があり、本館には各中隊事務所(Orderly Room)兵員宿舎、クラスルーム、衣服部、図書館、厚生部、喫茶室、PX、ホビーショップ、床屋、アイロン室、ジム、ピストル射撃場、士官・下士官食堂(Mess Hall)、劇場、読書娯楽室(Day Room)、屋外運動場などが完備されていた。そしてとにかく清掃が行き届いており、明るく清潔であったことに驚かされるという。常に誰かモップで床を拭いていた。(時には罰の1種として課された兵隊が掃除することもあるようだが)
④ 勤務の日常=中庭(ポール)に早朝星条旗が揚がり、米国国歌が拡声器から流れるなか、構内全員一斉に不動の姿勢で敬礼をする。夕方旗が降下するときも同じである。武器点検をはじめ点呼(Guard Mount)は極めて厳格であり、これが終ると憲兵司令官から始まる約50台のパトロールカー(無線連絡用のコールナンバーが与えられている)が各々の部署につくべく発進するのが日課の始まりである。
 米兵のおしゃれ振りには感心する。軍隊自体がおしゃれなのだ。朝夕の点呼では、帽子を取らせ、髪の伸び具合から靴の磨き具合まで、厳しく点検するのだ。靴はクリームを塗ってから少量の水、水がなければ唾を吹きかけて磨いていた。米国将兵はマッカーサーをはじめ誰もがスタイリストであった。
 キャンプバーネスでは兵士と上官の関係が親密で、勤務時間外になると、将校と兵士が親しく話し合ったり、散歩する光景がよく見られた。体罰は1度もなかったが便所掃除をさせられることがまゝあった。
◎ 余談になるが、思いがけぬ出会いを一つ披露すると、私は会社を定年でフリーになってから縁あって、アメリカのサンベルト地帯テネシー州の首都ナッシュビルで日本法人の会社を立ち上げて運営していた折り、偶然にも部下のアメリカ人 Richard G. T. が、なんと東京の有名な魚市場隣りにある旧海軍経理学校にいたことがあると知って驚いた。彼は前述の第720MP大隊C中隊に所属し、第1騎兵師団とともに朝鮮戦争で仁川上陸作戦に参加、その後東京に帰ってMP勤務、キャンプバーネスにいた。隅田川や勝鬨橋、銀座など懐かしい限りだと分厚い記念写真のアルバムを持して、いろいろ説明するのだった。彼の家庭に招待されてバーベキューで豪勢なTボーンステーキを食べたりしたが、日本女性を妻とし、大の親日家で、娘はシャトルの大学生、東京大学のロースクールに留学し弁護士になるという。年金生活に入ったら、夫妻そろってカードライブで全米をゆったり興に任せて放浪の旅の余生を送るのだと聞かされた。まことに不思議な縁であった。

3.外務省通訳養成所(Interpreter Training School 略称 ITS)の発足
 日本に陸続として進駐してきた米軍を主とする英連邦軍(イギリス、インドオーストラリア軍、ニュージーランド軍)などの英語圏の占領軍と支障なく会話のできる警察官を養成する必要に迫られ、外務省と警視庁によって昭和21年8月に急遽設立されたのが外務省通訳養成所(ITS)で開校当時の運営は外務省に委任されていて、養成期間6ヶ月(朝0830から夕1600まで)日本語使用禁止のハードスケジュールであった。講師陣は主任教師の代々木八幡ペテル教会牧師熊谷政喜、アイナ・メイ夫妻を中心に、山田基男恵泉女学園教授、下落合教会のメイヤー博士夫人、ハワイ生れ2世青年で明朗な佐野さん、同じく重厚な大島さんのほか、ときどき代々木のワシントンハイツから進駐軍夫人などがエキストラで教壇に立った。特に熊谷夫人のアイナ・メイ先生は如何なるときでも怒ることをせず、実に優しいなかにバックボーンのある人で受講者の人気を集めておられ、今後の生き方について大いに感化を与えてくれたのであった。
 アイナ先生はオハイオ州の富豪農場の娘で、フロンテアスピリットに満ち溢れ、家を出てアフリカに開拓伝道に従事したあと、宣教師として来日したのは大正13年。青山学院大学、関西学院大学で英語の教鞭をとり、戦時中は帰国の道を選ばず、「敵国人」という周囲の視線に耐えながら、戦時中の日本人と苦楽を共にした聖霊に満たされた人であった。勳4等瑞宝章を受けられ昭和62年90歳でなくなられた。
 当時日本の学生や若者たちの間に英会話をマスターして、社会で活躍したい気持ちが高揚しており、実は、私はこのITS第2期生で、教場は久松警察署であった。西村哲郎、北村紀雄、北河原博の諸兄も参加していたと思う。
 なお講習の終了式のあと、全員で斉唱した歌は実は立教大学カレッジソングで有名な “St. Paul’s Will Shine Tonight” であった。昭和3年、立教大学はバスケットボール日本の覇者であったが、米カリフォルニア州フレスノ野球団が来日挑戦、試合後のエール交歓のときの故事に倣い、St Paul を ITS に置き換えて歌ったことを上記期友の3君は憶えておられると思う。

4.ポリス・インタープリター・トレイニングスクール(略称 PITスクール)の発足
 前述のITSは第6期生(昭和23年9月10日から24年2月26日まで)以降外務省の手を離れて、警視庁が独自に運営するようになり、教場は九段、田安門内の旧近衛師団の兵舎内として、講習期間、講師陣その他はITS方式をそのまま踏襲した。かくして英会話に力をつけた警察官をキャンプバーネスに派遣し、MPのパトロールカーに同乗協力をすることによって、任務の遂行が大幅に改善されるようになった。

5.講和条約の成立
 昭和27年4月28日対日講和条約成立、日本とアメリカは安全保障条約を締結して、日本は独立を回復し、対日極東理事会、GHQは廃止となって、米軍占領のビル群は接収解除が始まり、進駐軍(占領軍)は駐留軍と呼ばれるようになった。
 昭和25年6月25日に朝鮮戦争が勃発したことも影響し、やがて昭和27年5月1日血のメーデーといわれる戦後最悪の騒乱事件が起り、他にも事件が多発して、社会は不穏の空気に包まれた。漸く遅れていた地上軍の撤退が本格的に開始されたのは昭和32年に入ってからであり、同年8月1日米国防省は在日米軍の陸上戦闘部隊の撤退を発表して以来、部隊は順次帰国あるいは配置換えとなって日本の基地から撤退していった。必然的にMPたちの数も減り始めた。
 昭和33年6月には米空軍の管轄下の羽田飛行場も正式に日本に返還された。荒廃した東京も次第に落ち着きを取り戻し、至る所にあった焼跡もウソのように整備されてきた。東京タワー完成デヴュー、銀座の三十間堀も埋立完了、皇太子殿下(今上天皇陛下)と美智子様の成婚パレード、世の中の生活にも明るい兆しが見え始めてきた。

6. 米軍憲兵の引継ぎとPITスクールの閉校
 PMOは昭和33年9月12日代々木ワシントンハイツに移転後、間もなく東京地区の受け持ちの米軍憲兵は陸軍MPから空軍APに切り替えられ、そのオフィスは、オリンピック選手村のあった代々木山谷口におかれた。米陸上部隊の東京地域からの引揚げ進行に伴ない、PITも幕を閉じた。 

7. 築地のキャンプバーネスを日本に返還
 PMO指揮下のMP第720憲兵大隊が引揚げた後の旧海軍経理学校は日本側に、そのまま返還され、日本国はこれを法務局の出張所として暫時使用のあと、東京都に払下げた。

8. 築地の東京中央卸売市場の一部に変貌した旧海軍経理学校
 東京の復興が軌道に乗るとともに地方から流入する労働人口が急増するに伴い、生鮮食材の消費に供給の万全を期するため、都は隣接地を東京中央卸売市場の合理化に引き当てるため、地上建物を全部取り壊して、正門に向かって左側に築地市場厚生会館ビル、右側に立体駐車場ビルを建てて現在に至っている。なお流通面のグローバル化ならびにサービス面の変化に対応するため、都はすでに江東地区の一部に移轉用地を確保済みであるが、現在の財政事情から実施未定のままである。
 跡地の周辺は日本海軍発祥の地であるので、適当な措置を工夫していただけるよう希うものである。旧海軍経理学校は築地4丁目白河楽翁の浴恩園跡地の校舎から昭和7年9月30日京橋区小田原町3丁目一番地に移転したのであった。(大蔵省・戸田組)

9.結 語
 海軍3校の各本校は、その正面玄関上に天皇陛下御下賜の菊の御紋章が飾られ、その栄誉と期待の象徴となっていた。伝統のある帝國海軍発祥の地、東京築地界隈にはそれにかかわる記念碑が数多くみられ、歴史を偲ぶことができる。
 海軍経理学校築地本校は、空爆から免れて戦後前述のように首都東京の治安の拠点として米軍に活用されたが、日本に返還後、とり払われて、現在隅田川勝鬨橋ともとの草叢の中に碑文が経緯を物語っている。委細は私どもの胸中に切々と湧くのである。


冬のキャンプバーネス全景(築地市場方向に向かって。1951年)

 立体駐車場脇を晴海通りをちょっと行くと、左に入る波除通りがあり、そこを右に築地場外市場の賑わいを横目にしながら、先に進んだ。これから築地市場の構内に入っていくわけだが、それは次回の楽しみにしよう。


築地市場の向う側に東京タワーが見える

 

(文責:編集部MAO)