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「空襲を免れ、接収された聖路加国際病院」

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.31
「空襲を免れ、
接収された聖路加国際病院」

 明石小学校横の居留地中央通りを南西方向へ、聖路加国際病院の本館と旧館の間を歩いて行くと、右に礼拝堂(トイスラー記念館)が瀟洒な姿を現わす。これは、隅田河畔(明石町19番地=現・聖路加ガーデン)にトイスラー院長が宣教師館として建てたものを移築したという。

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トイスラー記念館

 そのうしろあたりから、振り仰ぐと、旧館の尖塔の十字架が、そのときは雲一つない青空に美しく聳えていた。その記念館の前には「アメリカ公使館跡」の石標(麻布から1875年に移り、1890年に赤坂に引っ越す間、この築地居留地にあった)があり、そのまま旧館玄関に続く広場を進むと、女学生がワイワイガヤガヤ会話しながら聖路加通りに出て行った。ここは「聖路加国際大学」と掲示されているから、女学生がいっぱいなのはわかろう。


  • 記念館後ろ脇から旧館を振り仰ぐ

  • 聖路加国際大学の玄関

 しかし、ここは「聖路加国際病院」で知られる一帯なのである。米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが、それまであった築地病院という病院(築地施療病院が改称した築地病院とは別。これは次回出てくる)を買い取り、1902年に「聖路加病院」(のちに聖路加国際病院と改称)を設立したことが今日につながっている。その際の病院は、トイスラーの出身地ボストンのマサチューセッツ総合病院をイメージして設計されたという。
 でも、当病院は1923年の関東大震災で倒壊、仮設病院を建てて診療を継続するなどしていたが、1933年に皇室、米国聖公会、米赤十字などの寄付によって再建された。それは(現在の旧館)は、フランク・ロイド・ライドに学んだアントニン・レーモンドら、3人のチェコ人建築家が設計している。レーモンドについては、秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』(新潮文庫)の「第二章ある建築家の功罪と苦悩」に詳しい。
 その病院が所在する築地・明石町一帯は、戦争の渦中から戦後に占領して接収することを意図していた米軍による空襲を免れたと言われる。つまり、このへんは聖路加国際病院のおかげで焼夷弾を見舞われず焼け残ったといわれる。
 戦中には、「大東亜中央病院」と改名していたが、戦後になると1945年9月に接収され、解除された1956年5月まで、前に紹介した同愛記念病院とともに名称は違いこそすれ、米陸軍第42総合病院として使用されている。
 現在の建物(新館)は、1992年に竣工したものである。だが、旧館中央の尖塔と、礼拝堂(トイスラー記念館)だけは、接収当時の外観を残し、その頃の面影が色濃い。

 名誉院長の日野原重明氏はテレビなどに出演したり、本を出版したりしているので、聖路加国際病院のことを、彼の活躍からも知る人も多いだろう。1911年生まれの彼は、100歳を超えてなお、執筆などにも力を注ぎ、多忙な日々を送っており、110歳まで現役を続けると頑張っている。
 さて、地下鉄の築地駅に向かうであろう女学生同様、聖路加通りに出て、築地川公園にぶつかったら、私は左(南西方面)に曲り、築地本願寺裏を晴海通りに出た。そこから、「築地の象徴」である勝鬨橋に向かった。
 1940年に竣工した勝鬨橋は、橋の中央部がハの字の形に跳ね上がって、船を通航させる跳開橋であるが、1970年11月29日の開閉を最後に開かれない橋となっている。しかし、渡っている時、重量級のダンプカーなどが通り過ぎようものなら、揺れを感じるため、私のような高度恐怖症の者は肝を縮こませるだろう。実際、平気な顔をしながら渡っていたが、私は内心怖かった。

 今回は、隅田川を月島側に渡ったところで、聖路加国際病院あたりの散策は終わりにしたい。

 

(文責:編集部MAO)