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米軍将校クラブのバンカーズ・クラブだった東京銀行協会ビルへ

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.27
米軍将校クラブの
バンカーズ・クラブだった
東京銀行協会ビルへ

 渋沢栄一が創設した東京銀行協会の集会所(サロン)として、1916年9月に竣工したレンガ作りの建物は、今も東京駅近くに残っている。その建物は数奇な運命をたどっており、記憶に残しておきたいものだ。

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 そもそもの話から始めよう。以下は、東京銀行集会所及び銀行倶楽部の写真と、その沿革である。

「沿革――明治九年国立銀行条例の改正後、銀行の設立漸く増加し、翌十年に至りては全国を通して其数二十に上り、東京に於ける国立及私立銀行の本店及支店凡そ十一に及へり、是に於て青淵先生(渋沢栄一)は銀行業者会合の必要を主唱し、東京府下同業者多数の同意を得て、同年七月二日始めて同業者の会合を第一国立銀行に開き、一会を組織して択善会と称す、之れ実に現今東京銀行集会所の濫觴にして、又我国銀行家会合の嚆矢なり、当時此会に加はりし銀行は其数十一にして、第一国立銀行第十五国立銀行及三井銀行推されて幹事となり、会務は第一国立銀行に於て之を処理し、毎月一回会合を開けり、爾来国立銀行の設立愈増加すると共に本会に加はれる銀行亦愈々増加して其数遂に三十に上れり、明治十三年八月択善会会合に於て組織変更基金出資其他の件を決議し、第三、第六、第二十、第三十三及第百の各国立銀行を挙けて委員とし、同年九月一日其創立を告け、名けて東京銀行集会所と称す、明治十八年六月現今の会堂を新築して之れに移転す、此年十二月始めて銀行通信録を発行す、蓋し之に先て択善会に於て択善会録事の発行あり、明治十一年理財新報と改称して毎月一回之を発行し同十二年之を廃刊せし以来、雑誌の発行久しく中絶せしが、茲に至りて再ひ之を発行せるものにして、爾来月刊以て今日に至る、二十九年三月規程を改正して会長一名、副会長一名を置き、会務の統理に任す、三十一年経済文庫を設置し、三十二年銀行倶楽部を開設す、翌三十三年七月更に規程を改め、従来毎月一回開会の定式集会を廃して、定時総会は一年両度とし、且つ副会長一名を増加す、現今組合銀行は其数五十五行にして、会員の数約百五十名に達せりと云ふ」

 だが、この建物は、1945年9月にGHQによって接収され、「バンカーズ・クラブ」の名で将米軍将校ラブとして使われた。ジャズなども演奏され、その頃の様子について、アルトサックス奏者の五十嵐明要さん、バリトンサックス奏者の原田忠幸さん、ジャズ歌手の後藤芳子さんの3人が「街歩き」しながら語り合っている(「街歩きに出かけよう」の6回目「進駐軍ジャズの跡を訪ねて」)。
「日比谷通りに面した右側に、赤レンガ造りの威容を誇る東京銀行協会ビルがあります。現在は『銀行倶楽部』と称され、結婚式やパーティー或いは企業や役所の用談の場としても使われているようです。
 実はここが戦後まもなく『バンカーズ・クラブ』と呼ばれたアメリカ第5空軍(Fifth Air Force)のクラブでした。ここで立ち止まってがっしりとした建物を見上げました。言われてみればそのような重厚な雰囲気がうかがわれます。……

原田 入口はたしかこちらでしたね。ここから入った記憶がありますよ。
五十嵐 この(現在、車寄せになっているスペース)奥に芝生の庭があって、そこで屋外演奏をやるんですよ。兄貴(故武要氏)たちの楽器をエッチラコッチラ運んでましたね。当時のメンバーは誰でしたか。調べれば判るとおもいますが。
後藤 バンカーズ・クラブねぇ。山屋清とファイン&ダンディーズで1年位出ていたかしら。山屋清さん(As)、池沢行生さん(B)、村田さん(D)でした。ピアノは誰だったか、思い出せない。
原田 (現在の玄関を見あげて)きれいにしたのだろうけど、石造りの玄関は昔のままだね。
五十嵐 階段も木製の手すりも当時のまま、懐かしい。
原田 当時? 仕事はきつかったけど、それなりに結構楽しかったですよ。ここは結構レベルの高いバンドが出てましたよ。(レイモンド)コンデさん、(フランシスコ)キーコさん、与田(輝雄)さんがいたゲイセプテット。ナンシー梅木も一緒でしたね。
後藤 私はその後、立川のオフィサーズクラブで、ディック・グールドオーケストラのシンガーとして歌ってました。ピアノは秋吉敏子さんでしたね。トランペットは、今ブルーコーツのリーダー、森(寿男)さんでした。
原田 森さんは今も名門バンド「ブルーコーツ」率いて頑張ってますね。トシちゃん(五十嵐氏)もブルーコーツで、コンサートマスターやっていた時がありますよね。


バンカーズ・クラブ時代の
華やかさをうかがわせるクラシックな階段

 このビルの支配人の方に案内されて階段を上がっていきます。一部の雰囲気は残っているようですが、内装はすっかり変わってしまっているようです。五十嵐さんと後藤さんは当時の思い出と、現在が違いすぎて戸惑っている様子。逆に原田さんは「ここに何があって、あそこは確か何々でした」と、記憶の糸を手繰っています。
 しかし、進駐軍が居た時代から60年近く経過していますから、昔を懐かしむものも少なく、記憶もすっかり風化してしまったのは止むを得ないことです」
 この懐旧談は10年ほど前のこと。さらに時間を経た、今では、ファサード保存という保存形式で、皇居に面した西面と南面に、2、3階、一部4階建てのルネッサンス様式の赤レンガ造りの建物が、20階建ての現代的なビルの下部にへばりついている。その改修・保存の工事は1993年に行われている。
 私はそこを訪ねるべく、まずパレスホテル東京に向かった。正面は内堀通りに面し、右手に大手門を見ながら、左側に歩いていくと、すぐ隣が和田倉濠で、白鳥が悠々と泳いでいて、濠越しに赤色鮮やかなレンガ造りの建物が日比谷通り沿いに見えた。私はそのまま、和田倉噴水公園に入っていき、横切って、和田倉橋の畔から見上げると、現代的なビル群の中で、そこだけが趣のある佇まいを見せていた。日比谷通りの横断歩道を渡り、建物に入っていき、そこをガードしていた警備員に、内部に撮影を頼んだが、すげなく断られてしまった。先ほどの3人たちは撮影していたので、それに任せよう(上記写真)。


  • パレス・ホテル横の白鳥の遊ぶ
    和田倉濠からのぞむ

  • 和田倉橋の欄干超しに見る

 外に出て、東京銀行協会ビル脇の左奥を見通すと、東京駅の丸の内北口、その手前に日本工業倶楽部ビルがあり、そこで某ライターの出版記念パーティをしたことを思い出した。30年近くも前のことだ。その前に、この周辺の案内板があったので、メモ風に撮影して、その場を離れた。


  • 東京銀行協会ビル脇を
    東方面に進めば東京駅北ノ丸北口

  • 日本工業倶楽部前の案内板
    ※クリックすると拡大表示されます

 

(文責:編集部MAO)