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「丸の内百年のあゆみ、三菱地所社史・上巻」その3

COLUMN「丸の内百年のあゆみ、三菱地所社史・上巻」その3

VOL.26
小川 真理生さん

ここでは、「丸の内百年のあゆみ、三菱地所社史・上巻」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第26回「丸の内百年のあゆみ、三菱地所社史・上巻」その3

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 「三菱地所社史」の3回目ということで、これからは第7章第1節の「2.財閥解体」の部分を見ていきたい。

 

財閥解体指令
 太平洋戦争終了後の日本経済は、連合国総司令部の対日管理政策によって指導された。その管理政策の目的である、いわゆる「経済民主化」の一環として実施されたわが国経済史上未曾有の変革の一つに、財閥機構の解体があった。
「ポツダム宣言」は日本の民主主義の確立と平和産業、外国貿易の復活をそれぞれ謳っていたが、財閥解体についてはとくに明言していない。しかし1945年(昭和20)9月22日、「ホワイトハウス指令」として公表された「降伏後における米国の初期の対日方針」(“United States Initial Post-Surrender Policy for Japan”,Sept.22,1945、以下「初期方針」と略記)第4部「経済」の項で、「日本の商業および生産上の大部分を支配し来りたる産業上および金融上の大コンビネーションの解体を促進」するとあることからも明らかなように、財閥機構の解体はアメリカの対日管理基本方針の一つとして、敗戦国日本のもはや避けて通ることのできない命運だったのである。
 20年10月16日の連合国総司令部初代経済科学局長レイモンドクレーマー(Raymond C. Kramer)の声明によれば、財閥解体の実施についての連合国総司令部の基本的な方針は次のようなものであった。すなわち最初から強行手段に訴えることを避け、日本側から自発的に目的達成に必要かつ適切な改革の機運が盛り上がることを期待し、総司令部はこれを助成するにとどめる。しかし、もし日本側が何ら手を打たない場合は命令を出すこととし、日本政府が自ら進んでこれらの線に沿って実施するよう勧奨するというのである。
 クレーマー声明はまた「これは戦争を利用して莫大な利益を得ようとした会社トラストに対する懲罰的措置だ。総司令部はいかなるトラスト、会社でも国の政治、国民の生活を左右するような独占経済による支配力を持つことを破壊する方針である。総司令部が日本に対して打とうと予定している経済措置は、概ね今年中に完了するだろう」と述べている。
 一方、財閥側の反応はどうだったであろうか。20年9月の前記「初期方針」が公表された当時、連合国総司令部に財閥解体の意図があることは明らかだったが、解体される財閥の範囲も、またその程度も知ることができなかった。そのため三菱、三井、住友、安田のいわゆる四大財閥ですら、解体は比較的微温的な方法で事が運ばれるのではないかと考えがちであった。
 たとえば、安田保善社が「クレーマー声明」の出る前日の10月15日、すでに安田一族の総退陣、傘下会社首脳部の総辞職だけでなく保善社の解散ならびに同族持株の公開を決議したのを除けば、三菱、三井、住友いずれも本社を解散せず、単に本社ならびに傘下会社首脳部の更迭、とくに本社役員と傘下会社重役の兼任禁止といった程度の改革案にとどまっていたのである。
 三菱では、三菱本社に設置された渉外連絡委員室が中心となって総司令部当局と折衝を続けるとともに、他の財閥各社とも密接な連絡を保っていた。20年9月25日、三菱商事社長で三菱本社取締役の田中完三は、三菱本社においてクレーマー大佐と会見、三菱は「財閥解体が財閥の過去の罪悪に対する懲罰的措置である」とする総司令部の基本的見解には承服しかねる旨の三菱本社社長岩崎小彌太の意向を伝えた。
 引き続いて米国側が抱いている三菱についての誤解を解くために、三菱の事業内容、発展の経緯等を内容とする陳述書を連合国総司令部へ提出して理解を求めたのである。この陳述書は「所謂財閥として三菱に関する米国側の誤れる観察を是正」するためのもので、同年10月6日、田中からクレーマー大佐に手交された。
 翌10月7日、三菱本社ではかねて考慮中だった三菱の漸進的改革の一段階として、三菱本社ならびに傘下各社はそれぞれの定款および職制を改正すると同時に、65歳前後の先任役員は一斉に退任する旨の機構改革、役員の人事異動を内定、10月末あるいは11月初頭に株主総会を開いて決定すると発表した。同改革案によると、三菱本社では理事長を廃して会長、相談役を置くこととし、社長岩崎小彌太は会長に、副社長岩崎彦彌太が社長に就任、新副社長は岩崎家以外より選任することとした。また当社では山室宗文が社長を退き、代わって取締役平井澄の社長就任を内定した。なお山室宗文は取締役にとどまることとした。
 しかし10月半ばになって、総司令部の意向が極めて強硬であることが次第に判明してきた。それを裏づけたのが、10月16日の前記「クレーマー声明」だったのである。このような連合国総司令部の強硬姿勢によって、財閥の解体は必至の情勢となってきた。しかし「クレーマー声明」の内容にあるように、総司令部は命令によって解体させるのではなく、あくまでも財閥自身の自発的解体によって過去を清算させようとする態度であった。

岩崎小彌太社長の抵抗
 財閥各社は、総司令部がどの程度の改革を求めているのかその真意を測りかねる一方で、財閥に対する総司令部当局の圧力は次第に各社を動かしつつあった。だが岩崎小彌太は「総司令部は、財閥は過去を反省して自発的に解散せよというが、三菱は国家社会に対する不信行為は未だ嘗って為した覚えはなく、また軍部官僚と結んで戦争を挑発したこともない。国策の命ずるところに従い、国民として為すべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」(岩崎小彌太傳編纂委員会『岩崎小彌太傳』、昭和32年)と主張して自発的解体案を拒否し続けたのである。
 こうしたなか「クレーマー声明」から2日後の10月18日になり、まず安田保善社が先に決議した自発的解散を声明、次いで三井本社、住友本社も自発的解体を決定し、三菱だけが取り残される情勢となってきた。このように事態は風雲急を告げつつあり、終戦直前より健康を害し熱海別邸に引き籠っていた岩崎小彌太は10月21日に上京、翌22日三菱本社で児玉謙次終戦連絡事務局総裁(元横浜正金銀行頭取、元三菱銀行取締役)と会見した。児玉総裁は総司令部の意向が強硬なことを伝え小彌太に善処を促したが、小彌太は相変わらず自発的解体には応じようとしなかった。
 ただ小彌太も児玉総裁との会談によって、総司令部が早晩至上命令を下すだろうことを感じ取っていた。そこで同日午後、本社首脳と協議のうえ最後まで自発的解体は拒否するが、日本政府の命令がある場合には三菱本社を解散するとの根本方針を決定、準備を進めるよう指示したのである。翌10月23日には渋沢敬三大蔵大臣が小彌太を訪ねてきた。蔵相は三菱を除く他の三井、住友、安田の3財閥のみで自発的解体案を出すという政府の意向を伝え、そのうえで重ねて三菱の自発的解体を説得した。しかし小彌太は、ここでも反対の意思を崩そうとはしなかった。
 大蔵大臣に面会した翌24日、小彌太は児玉総裁と再度会見、三菱本社の改造ならびに小彌太がかねて強く希望していた本社の株式配当実施について懇談した。しかし総裁の辞去後、小彌太はにわかに悪寒を催したので本社を退社、麻布鳥居坂の本邸に帰宅したが、その後病状が悪化し同月29日、東京帝国大学医学部付属坂口内科に入院することとなった。
 小彌太が入院した同じ日の午後5時、四大財閥の代表(三菱は三菱商事田中完三社長が出席)が大蔵省に招かれ、10月31日を期して4社が自発的に解体する旨の共同声明を出すよう要請され、しかも即答を求められたのである。自発的解体は岩崎小彌太の意思に反するので田中は了承せず、いったん帰社した。続いて三菱本社船田一雄理事長と相談のうえ、病床に臥す小彌太に代わって政府提案を検討、政府の要請は三菱本社の解体を命令したものと理解し、万やむを得ざるものとしてこれを受諾したのである。小彌太が最後まで希望した株主への配当も、結局は総司令部の受け入れるところとはならなかった。

本社解散の決議
 三菱本社解散の承認を求める第16回定時株主総会は、昭和20年(1945)11月1日午前11時から丸の内の三菱本館において開催された。社長の岩崎小彌太が病臥中のため船田一雄理事長が代わって議長となり、先の10月7日に内定していた議案を撤回修正し下記の議案を付議、承認された。すなわち、

  1. 岩崎家家族は関係会社から退職すること、ならびに三菱本社を代表して被支配会社および子会社に派遣中の役員は、それぞれの会社から退職させる
  2. 定款中、事業目的を変更し従来の分系・関係会社に対する統制、支配力を払拭、統轄会社としての性格を失って単なる持株会社となる
  3. 同じく現定款の副社長、理事長、常務理事制度を廃止、通常の会社のような社長、常務取締役の役員機構に改めたうえ会社は追って解散する
  4. (『三菱社誌』)

 その席で役員を改選し取締役理事以上は全員退陣することとし、取締役社長岩崎小彌太、取締役副社長岩崎彦彌太、取締役理事長船田一雄、取締役理事加藤武男、同山室宗文は辞任、取締役理事三橋信三は退任、同じく同日任期満了の取締役常務理事平井澄(当社取締役)は常務理事を退任、取締役のみ重任とし(同年12月1日、取締役も辞任)、取締役斯波孝四郎、監査役鈴木祥枝も同日辞任した。
 また同日、取締役の互選によって新たに取締役社長に田中完三、同日の職制改正によって新設された常務取締役には鈴木春之助(前取締役常務理事、後、当社監査役)と石黒俊夫(前総務部長、当社監査役)が就任した。これにより三菱本社は、単なる持株会社としてとりあえず存続することとなった。
 こうして四大財閥の中枢的持株会社である三菱本社をはじめ、三井本社、住友本社および安田保善社、そしてその他自発的解体を希望するこれらと同性格の持株会社の解体実施計画は軌道に乗り、政府は20年11月4日「持株会社の解体に関する覚書」を連合国総司令部に提出した。本覚書の骨子は、以下のとおりである。

  1. 財閥解体の処理機関として持株会社整理委員会を設ける
  2. 各財閥持株会社は、その所有する一切の有価証券および他企業に対して有する一切の所有権、管理、利権の証憑を持株会社整理委員会に移管、直ちに解体に着手する。また傘下の銀行、会社などに対し、直接たると間接たるを問わず指令権、管理権の行使を停止する
  3. 三井、岩崎、住友、安田一族の一切の財閥家族員は、すべてその関係する銀行および事業に占める現職から引退する
  4. 各財閥持株会社の取締役および監査役などの役員も、関係企業に占める一切の地位を退く

 連合国総司令部は日本政府に対し2日後の11月6日、本提案を承認するとともに即時実行を指令、同時にその提案の随時推敲、修正、実施の監督、検閲について総司令部は完全な自由をもち、さらに財閥機構の解体に関する立法ないし行政的措置を含む追加資料の提出を命ずる旨の覚書を送付した。これにより財閥解体の内容は一層具体化し、即刻実行に移されることになったのである。なおこの覚書では、本社ならびに各分系会社の所有する動産、不動産、有価証券その他一切の財産について売却、贈与はもちろん権利の移転を禁止する旨の指示が付されていた。

財閥解体のプロセス
 財閥解体の具体的な第一歩は、まず昭和20年(1945)11月22日施行された、いわゆる「制限会社」制度を規定するポツダム勅令(以下「ポツダム勅令」と略記。注:ポツダム勅令とは、20年9月20日の緊急勅令第542号「ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令二関スル件」に基づいて発せられた命令で、22年5月日本国憲法施行後は「ポツダム政令」となる)第657号「会社の解散の制限等の件」により始められた。この勅令は先に連合国総司令部から発せられた覚書を法制化したもので、これにより本社と各分系会社は一切の財産の権利移転につき、すべて大蔵大臣の許可を要することとなったのである。
 次いで政府は21年4月20日「持株会社整理委員会令」を公布、これに基づき同年8月8日、笹山忠夫を初代委員長とする持株会社整理委員会が発足した(設立登記8月22日)。同委員会は、内閣総理大臣の監督のもとに「企業の所有及び経営の民主化を計るために持株会社及び指定者の所有する有価証券及びその他の財産を譲り受け、これを管理処分して持株会社の整理を促進、指定者の企業支配力を分散し、かつ過度の経済力集中を排除して民主的で健全な国民経済再建の基礎を作ることを目的とする」(同委員会令第1条)特殊法人であった。
 持株会社整理委員会は、まず解体整理の対象となる持株会社の指定に着手した。21年9月6日、第1次指定として四大財閥各本社および軍需会社的性格のもっとも強かった富士産業(旧中島飛行機)の5社が指定された。その結果各財閥は、所有する財産すべてを同委員会に譲渡すること、ならびに同日以降の日常業務の執行は同委員会が指導監督する旨指示された。9月23日、同委員会から譲渡すべき具体的な財産の指示があったので、ついに三菱本社は9月30日、臨時株主総会を開いて解散を決議するに至ったのである。
 同総会では清算人として鈴木春之助、石黒俊夫両常務取締役を選任し、翌10月1日に解散登記を完了した。そして10月8日、持株会社整理委員会の指示に基づく財産譲渡の第1回分として、三菱本社所有株式4億6339万2150円(926万2744株)および債券67万2000円(3口)を同委員会に譲渡した。そのなかには、本社が八重洲ビルを当社に現物出資のかたちで譲渡した際に発行された当社新株7万株350万円も含まれていた。次いで財産譲渡の第2回分および第3回分は、いずれも21年5月6日に行なわれ、当社旧株17万1000株の譲渡は第3回分であった。
 持株会社整理委員会に移管された当社株式は最終的に、三菱本社が所有していた24万1000株(新株7万株、旧株17万1000株)および岩崎家家族が所有していた旧株6000株の合計24万7000株であった。これら有価証券は、当社株式に限らず、別途設立された証券処理調整協議会の調整を経て、原則として発行会社の従業員、役員、そして一般投資家などに売却等の処分がなされたのである。
 このようにして保有有価証券は持株会社整理委員会に移譲されたが、不動産については帳簿上の金額はともかく、土地21万5311坪、建物延べ3万3489坪という膨大なもので、三菱本社清算上の難点とされていた。しかし清算の促進、資産の保全ならびに賃借人の権利擁護の観点から、次節で述べるように第二会社を設立してこれに出資することが認められ、25年1月、陽和不動産および関東不動産の2社が資本金それぞれ3600万円で設立されたのである。
 三菱以外の各財閥も三井、安田は三菱同様21年9月30日、一斉に解散を決議、清算に入った。住友本社は現業部門を持っていたのでまずその処理に着手し、本社は23年2月28日に解散、清算に入った。不動産処分にかかわる第二会社としては、住友本社が泉不動産、安田保善社が永楽不動産をそれぞれ設立している。
 こうして財閥本社は、持株会社整理委員会の存続した5カ年間、その指揮監督下にあって清算の対象である資産処分、債権債務の処理をほぼ完了し、かつての巨大コンビネーションもその姿を消したのである。三菱本社の清算完了は、27年4月21日のことであった。

小彌太社長の死
 これより先、三菱本社の解体問題が切迫しつつあったとき、社長の岩崎小彌太が自らこれを処理するため熱海別邸を出て上京したのは、昭和20年(1945)10月21日の日曜日であった。小彌太は11月1日の株主総会が終わったらすぐ帰ると気軽に言い残して玄関を出たが、熱海の家には再び帰ることはなかったのである。
 10月29日東京帝国大学坂口内科に入院した小彌太の病名は、腹部大動脈瘤ならびに下大静脈血栓症であった。思えば去る5、6月の空襲下の東海・関西地方の現場視察後、腰部に疼痛を覚えたのは、そのころすでに動脈瘤が相当進んでいたためであった。
 太平洋戦争終結の詔勅が渙発された日の翌20年8月16日、小彌太は熱海で次のような書簡を認めている。

 15日放送を通じて陛下の玉音に接し、涙滂沱たるを禁じ得ず、爾来謹慎して沈思黙考の日々を送っている。不可能を可能ならしめんとして渾身の努力を傾けてきたが、事ここに至っては今更ながら心身の疲労を覚える。

(前掲『岩崎小彌太傳』)

 戦時中、滅私奉公の大義に全身全霊を傾けてきた岩崎小彌太の張りつめた心の糸はプッツリと切れ、しかも小彌太の脳裏に去来したこの精神的苦悩は病苦にまさるものがあったに違いない。しかし三菱の総帥として、戦後における社会情勢の変化と来たるべき三菱の事業に対する重圧を予感する病床の小彌太は、夜半に起き上がって三菱首脳に長文の手紙を書いたことが度々あった。三菱本社の解散、自己の退任を含む岩崎家一族の総退陣を決める20年11月1日の株主総会の前日、小彌太が入院先から在京常勤役員に宛てた「告辞」と題する声明もその一つである。以下に要旨を略記する。

 

 新事態の発生は、常に社会の進化、進展を求める。戦後の国情に照らして、特に産業経営者の利潤独占に対する非難の声が上がっている。産業が利潤を離れて存在できないことはもちろんだが、その公正な使い方と配分方法について、経営者は細心の注意を払わなければならない。
 自分は、産業の使命は国利民福にあり個人、個人の利益は第二義的な問題だと常に主張してきた。これが、とりもなおさず産業人の職域における奉公の大義なのである。この道が、わが社伝統の信条であることは今後とも変わることはない。
 今、わが国の産業界、経済界が求めているのは封建的な組織を民主的なものに改め、独占的な特権を排除してこれを民主化せよという主張のようである。しかし、わが社は今、まさにその要請に応えようとしているのであるが、これもわが社年来の主張とまったく変わっておらず、世間の風潮に迎合する一時的な変貌に基づくものでは決してない。
 もともとわが社の経営は、常に各種の事業を興してその拡大発展を図り、それによって得た利潤を公平に配分することであった。そのために各種の事業も創業時においては失費を厭わず経営に当たるが、基礎が固まればその事業を独立させて利益を広く一般に公開するよう努めてきた。しかも、その組織ならびに配分の方法についても、常に時代の趨勢を洞察し、社会の進歩に適応するよう心がけてきた。
 このように、わが社が堅持してきた経営方針は、実に永遠の恒久策であるばかりでなく現代にも十分通用する具体策でもある。
 社会情勢の急激な変化は、事業の種類や経営の緩急に変動を与えるものだが、基本的な信条は断じて改変してはならない。従業者の諸氏は、常にこの信念で事に当たるべきである。

(『三菱社誌』)

 

 社長岩崎小彌太の三菱の経営に対する信条、信念はまさにこの一文に吐露されている。そしてまたこれは三菱の従業員に与えた最後の言葉であり、最後の訓戒でもあった。入院後の病勢は日増しに悪化の一途をたどり、ついに20年12月2日午後11時15分、岩崎小彌太は大動脈瘤の破裂によって不帰の客となったのである。天寿67歳であった。
 最晩年の句と辞世にその悲痛な心境を窺うことができる。

<昨夜大空襲ありて自邸も全焼せしと傳ふ>
住み馴れし  幾年月の  鵜籠かな
<六月中旬上京 全焼の自邸の焼跡に立つ夜月よし>
哀惜の  物皆焼けて  月涼し
<八月終戦に>
天も啼け  地も泣け秋の  一葉して
<十一月五日朝東大病院にて 辞世の句>
秋さまざま  病雁臥すや  霜の上

グループ各社の解体と分割
 三菱グループ各社のなかでも、三菱本社同様持株会社として指定された会社があった。三菱重工業、三菱鉱業、三菱電機、三菱化成工業および三菱商事の5社(いずれも昭和21年12月28日、第3次指定)である。これらの各社は企業の所有および経営の民主化が義務づけられたために、その所有する一切の株式を持株会社整理委員会に譲り渡し、子会社との間の資本的関係はすべて断ち切られた。
 しかし三菱商事の場合には、三井物産とともに一部財産の譲渡、処分だけでは財閥解体の趣旨に沿わないと昭和22年(1947)7月3日、突如として他に類例をみない苛酷な条件のついた連合国総司令部の覚書によって即時解散を指令され、清算に入った。現在の三菱商事は、21年10月の「企業再建整備法」による認可を得て同社の第二会社として25年4月に設立された光和実業が、講和条約発効後の27年8月三菱商事と改称、その後、同社が旧三菱商事系企業を集約した不二商事、東京貿易、東西交易の3社を吸収合併して29年7月再発足したものである。
 分系会社各社の戦後における変遷は表(省略)のとおりである。三菱本社傘下各社は、当社も含め他の財閥関係会社同様すべて「会社の証券保有制限等に関する勅令」(昭和21年11月25日)による所有株式および持分の譲渡、処分によって子会社に対する企業支配はすべて消滅したのであった。
 そのうえ財閥機構の人的連携を断ち切る目的で「公職追放令」(21年1月)および「財閥同族支配力排除法」(23年1月)が施行されたため、岩崎家江一族ならびに三菱本社および傘下会社の役員だった者はその地位より追放された。とくに財閥家族として指定された岩崎家の11名(岩崎久彌、岩崎彦彌太、岩崎隆彌、岩崎恒彌、岩崎忠雄、岩崎淑子、岩崎孝子、岩崎勝太郎、岩崎康彌、岩崎輝彌、岩崎八穂)は、そのすべての財産を持株会社整理委員会によって管理され、さまざまな制約を受けたのである。明治29年(1896)、コンドルの設計により竣工した岩崎久彌の本郷区(現文京区)湯島の邸宅も財産税の物納分として税務署に納付され、このとき以来国有となった。現在は最高裁判所の司法研修所として使用されている。
 また24年9月21日、総司令部の指令に従った持株会社整理委員会は三菱、三井、住友系の各持株会社と商号商標をそれぞれ共通に使用している傘下会社に対して、25年6月中にそれら共通の商号商標を変更するよう指示してきた。ただし翌26年6月末までの1年間は新旧併用を認めるとの緩和規定が付されていた。そしてこの指示は25年1月21日付の政令で法的根拠をもったのである。
 グループ各社のなかでは、総司令部の意向を受けた大蔵省の指示で、すでに23年中に三菱銀行は千代田銀行に、三菱信託は朝日信託銀行にそれぞれ商号を変更し、スリーダイヤの商標も変えていた。したがって当時三菱の商号とスリーダイヤの商標を残していたのは、清算中の三菱本社を除けば当社と三菱鉱業、三菱電機、三菱製紙、三菱石油、三菱倉庫、三菱化工機の7社であった。
 三菱電機については、米国のウェスチングハウス電機会社との技術提携の資格がなくなるため、分割そのものにも、また商号商標の変更にも難色を示していた。同社の高杉晋一社長は三井不動産の江戸英雄取締役(当時)や住友の関係者とも共同して、商号商標の変更には莫大な経費がかかること、日本経済の復興に悪影響を及ぼすことなどの理由を挙げ、総司令部当局はもちろん当時の吉田茂内閣総理大臣にも猛反対を続けた。「虎屋の羊かんは虎屋の暖簾で信用がある。これを猫屋の羊かんとしたらどうなるか。社名商標を取り上げるということは実に残酷なことではないか」と、吉田首相への陳情の一端を高杉晋一は後年このように述べている(『財閥商号商標護持に関する懇談会記録』、昭和55年)。
 こうした努力の結果、政令の実施は27年6月末まで1カ年延期されることとなった。そして同年4月の対日講和条約の発効とともに禁止指令の根拠だった政令も効力を失ったので、結局、関係の各社は社名も商標も変更せずにすんだのである。

 

 以下、第2節「危機に見舞われた事業基盤」に続くわけだが、ここで引用紹介は一応終わる。「財閥会社ならびにその傘下会社が持っているすべての資産の任意の処分を防止する措置、いわゆる『制限会社』の制度」については、またの機会に詳述したい。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー