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「丸の内百年のあゆみ、三菱地所社史・上巻」その2

COLUMN「丸の内百年のあゆみ、三菱地所社史・上巻」その2

VOL.25
小川 真理生さん

ここでは、「丸の内百年のあゆみ、三菱地所社史・上巻」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第25回「丸の内百年のあゆみ、三菱地所社史・上巻」その2

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 前回に続いて、「丸の内百年のあゆみ、三菱地所社史上巻」の「第7章 占領軍の進駐と戦後の混乱(昭和20年~25年)」第1節 敗戦と財閥解体、を見ていく。

 

接収建物での苦労
 接収された建物の賃料は、すべて連合国総司令部により決められることになった。その賃貸借契約は日本政府の特別調達庁(連合軍の占領中、軍が使用する建物・設備の営繕、物資・役務の調達等を行なうために設けられた総理府の外局)と当社が締結、賃料はあらかじめ決められた米ドル建て価額を日本円に換算し、日本政府の終戦処理費から当社に支払われるというシステムになった。
 戦勝国であるばかりでなく、欧米先進諸国の生活水準を経験してきた占領軍のことだから、当時の貸事務所一般に提供していたサービス以上の良質かつ高度なものを要求したであろうことは想像に難くない。反面、敗戦後の日本政府の財政事情からいって、当社がそういったサービスに見合う賃料をもらえたかどうかはすこぶる疑問である。しかも前述のとおり、営業用建物の4割以上が接収されたのだから、当社の収益に影響を与えぬはずがない。一方ですさまじいインフレーションの昂進で、ほぼ6カ月ごとに実施された給与改定による人件費増をはじめ諸経費の高騰もあり、当社の経営はまさに“火の車”であったといっても過言ではないだろう。
 このほか、洋便器をはじめとした物資の調達など占領軍の建物接収にまつわる苦労話が数多くあるなかで、最も頭を痛めたものの一つに用水の問題があった。もともと丸の内地区においては、昭和初期ごろからの大型ビルの増加に伴い、限度のあった水道水の不足分を鑿泉設備を使って取水していた。しかし占領軍は接収建物に対してこの使用を全面的に禁止、水道に切り替えるとともに空襲被害による漏水で極度に水圧が減退している水道を、急ぎ増圧するよう東京都水道局に命じたのである。
 水道局は即刻増圧ポンプ所設置を立案したが、終戦直後の資材窮乏の折でもあり、局単独の実施は不可能だったので当社に協力を要請してきた。当社としても、接収外の建物を含め水道の圧力が著しく減少するという状態にあったので進んで協力することにした。主要資材は占領軍支給のものを使用、建物は仲3号館南西の空地(現国際ビル敷地)に当社の古材を使って施工し、昭和22年(1947)8月に運転を開始したのである。この応急の増圧ポンプ所は、多くの建物が接収解除された後の30年、当社が水道局の希望どおりの建物を新築してポンプその他すべての設備を一新したうえ水道局に寄付したが、30年代後半からの丸ノ内総合改造計画の進展でその使命を終えたのであった。
 そのほか三菱本館が接収されたため、三菱本社が所有していた印刷所の経営を当社が譲り受けるという一幕もあった。三菱本館は20年12月31日、総司令部の指令により翌21年1月15日正午までに引き渡すという期限つきで接収された。その際、同本館地下室にあり社報などの印刷に使われていた三菱各社共有の印刷機も立ち退くことになったのである。このとき本館にあった段ボール箱詰めの書類の多くは、切迫した事態のなか窓から道路に放り出され、向かいの三菱銀行本店に運び込まれた。また女子社員は和服での出社を命ぜられ、占領軍の追及から逃れるため着物の間に重要書類をはさんで運搬したという。
 本社総務部印刷工場の経営は、21年1月1日当社と三菱本社間で締結された「三菱本館及び開東閣賃貸借営業譲渡契約」に基づき、同日付で当社に移管された。当社は、とりあえず埼玉県草加村(現草加市)に土地建物を手当てし、印刷工場をここに移した。しかし遠隔地のため営業ははかばかしくなく、22年9月再び都内墨田区両国に移した際に、当社は印刷機等の物件一切を個人に譲渡、印刷所の経営から手を引いたのである。
 その後、同印刷所が廃業となった折に三菱本社の第二会社である陽和不動産が中心となって千代田印刷株式会社を設立、両国の印刷所を買い取って営業を開始した。28年4月、当社と陽和不動産との合併に伴い千代田印刷の株式も当社が引き継ぎ、現在に至っている。

容易でなかった賃料の値上げ
 接収にまつわる苦労とともに、接収を免れた建物にあっても地代家賃が低く、しかも厳しく統制されていたことから、当社の経営に及ぼした影響は大きかった。そもそも戦時中の地代と家賃は、戦争遂行のための物価統制政策の一環として国家総動員法に基づく勅令で統制されていたが、戦後は終戦直後の住宅難対策として政府は昭和21年(1946)9月、旧勅令に代えた新地代家賃統制令を制定、同年10月1日から施行することになった。
 新勅令は一般物価に比べて極度に割安だった統制地代家賃を是正する意味で21年9月30日現在の旧勅令ベースの地代家賃を凍結するが、家賃だけは一定の修正率を乗じて引上げを認めるというものであった。修正率は当時の物価庁(後の経済安定本部、現経済企画庁)により、地域別、建築時期別に定められた。この法令の狙いは当時の激しいインフレ圧力を防ぎ国民生活の安定を図ることにあり、住居の家賃が低い統制額に抑えられるのは政策的には十分理由のあることであったが、事務所の賃貸を業とする当社にとっては死活問題であったといえよう。
 当社の戦後における家賃増額申請第1号は20年10月、古河電気工業に一括賃貸中の仲10号館別館の賃料引上げであった。この申請は終戦直後のことなので旧勅令に基づくものだが、従来の平均坪当り月額賃料5円70銭を8円17銭へと43.3%値上げするというものである。ちなみに20年における丸ビルの新規賃料は坪当り月額商店22円75銭、事務室12円78銭、地下室5円であったから、値上げ後の賃料でもなお割安なことがわかる。しかし許可の条件として示された回答は、最初の6カ月は30%増を限度とし、残額は6カ月後実施という厳しいものであった。
 2回目の増額申請は初回の1年後、すなわち新地代家賃統制令が施行される直前の21年9月に行なわれた。東京都の許可内容は、①占領軍接収建物12件は、それぞれ接収の日に遡って50%増額、②接収外の建物24件のうち4件(丸ビルその他の直営館)は250%、20件(非直営館)は200%の増額をそれぞれ7月から9月までの3カ月分についてだけ許可するというものであった。新勅令が翌10月に施行されることを考慮した臨時措置であったのである。
 50%しか増額を認められない接収建物はともかくとして、接収外建物の200%、250%増という増額幅はいかにも大きくみえる。しかし21年における日本銀行調べの卸売物価指数(昭和9年~11年平均の戦前基準)は前年比364.5%高、同じく東京小売物価指数(同)は513.8%高と急騰しており、200%や250%程度の増額では実施時期のズレもあり、企業収益面でほとんどプラスにならないことは確かである。とくに当社の総営業建物の40%以上を占める占領軍接収建物の家賃が50%の増額では、全体で20%程度の増収率にしかならなかった。
 政府も22年1月には新地代家賃統制令の第1次改正を行ない、同年7月に改編された新物価体系に対応して、この年9月1日から統制家賃を13年以前の完成建物については現行家賃の150%増、14年および15年に完成の建物は130%増等々という修正率を定めて引上げを実施した。さらに翌23年10月にも家賃の第2次引上げと、地代の第1次引上げに踏み切った。
 その後、数度にわたる改正で統制は次第に緩和され、25年7月の改正で同月以降の新建築物とその敷地、および住宅以外の建物とその敷地の賃料を統制から外し、新地代家賃統制令は次第に実効性を失うことになった。これにより、当社も統制地代家賃の手かせ足かせからようやく逃れることができたのである。
 なおこうしたビル賃料の適正化に関しては、東京ビルヂング協会ならびに日本ビルヂング協会連合会の再三再四にわたる折衝、要望、陳情があったことを忘れてはならない。そしてまさにビル協の戦後の活動の歴史も、占領軍による建物の接収問題と、この地代家賃統制問題からスタートが切られたのである。

事務所難の打開
 度重なる米空軍のジュウタン爆撃により、終戦直後の東京は灰燼に帰していた。幸い爆撃を免れた丸の内や都内でわずかに焼け残っためぼしい建物も、占領軍の進駐と同時に次々と接収されたので、東京は関東大震災後を上回る事務所難に見舞われた。
 当社でもこうした極度に逼迫した事務所需給打開のため、昭和21年(1946)3月22日の取締役会で、連合国総司令部ならびに日本政府・日本銀行の許可を受けたうえで、次の事務所用建物新築工事に取りかかることを承認した。いずれも丸の内地区の戦災建物の改修、および強制疎開や戦災で焼失した建物跡地における工事である。

  • A丸の内三丁目8番地:
    仲6号館跡(現新東京ビル敷地)、煉瓦造3階建て2棟焼跡改修工事(総延坪数1045坪93、建築費予算440万円)
    B丸の内二丁目3番地:
    国際電気通信館(現東京ビル敷地)強制疎開跡、敷地1298坪81、木造2階建て(総延坪数1332坪42、当初建築費予算380万円、後826万円に増額)
    C丸の内一丁目2番地1:
    造船会館(現永楽ビル敷地)焼失跡、敷地1128坪65、木造2階建て(総延坪数約997坪50、建築費予算319万円)

 Aの仲6号館焼跡改修工事は、21年5月25日着工、同年7月14日竣工後、日新火災海上、東京海上火災、三菱製鋼、三菱重工業各社に貸し付けられたほか、一部(仲6号館5号)は占領軍により接収された。またBの国際電気通信館跡地は同年5月22日着工、9月16日に竣工し「三菱新館」と名づけられて同日、三菱鉱業に賃貸された。さらにCの造船会館跡地は上記のとおり建物建設を計画したが、同年6月更地のまま接収されてしまい、占領軍のモータープールとして利用されたのである。
 上記工事に引き続き、同じく東京大空襲で焼失した丸ノ内三丁目10番、仲5号館6、7号(現富士ビル敷地)についても仲6号館同様、焼残りの鉄筋コンクリートをそのまま利用、3階建て各階床は木造、屋根はスレート葺きとし、総延坪数253坪25、工事予算187万円で改修工事を施した。同建物は21年11月に竣工している。同じ敷地の仲5号館1~5号は、有楽館を接収された日本石油が改修工事費を負担して入居するとの条件で、同社宛てに焼跡のまま賃貸された。
 そのほか有楽町にある自社ビルを占領軍に接収され連合国総司令部事務所となった農林中央金庫は、事務所を日本銀行北分館と上野松坂屋4階の2カ所に間借りして設けたが、いずれも狭隘かつ非効率な環境下での業務を強いられていた。しかも日本銀行、松坂屋より立ち退きを要求されるに至って、当社に対して事務所の斡旋を求めてきた。これを受けて当社も八方手を尽くしたが適当な貸事務所は見当たらず、結局、大手町二丁目の機械工業会館の焼失跡地(現日本ビル敷地)に木造事務所を新築、これを同金庫に貸し付けることにしたのである。
 しかしながら当社は、次節で述べるいわゆる「制限会社」に指定されていたので上記三菱新館のように連合国総司令部が必要と認める工事は許可されるが、事務所難だけの理由では農林中金用の建物新築は認められそうもなかった。そこで新規の建物保有会社として興農建設株式会社を22年8月19日に設立、同社が当社に上記工事を発注するという形式をとったのであった。
 こうして23年3月、木造屋根スレート葺き外壁モルタル塗りの2階建て、延べ1260坪44の当時としては堂々とした新事務所、興農会館ができ上がった。そしてこれが縁で同金庫は26年、当社戦後初の近代的ビルである東京ビルヂングの入居第1号テナントとなり、その後日本全国に新築する同金庫の数ある支所の設計監理を当社に依頼するようになったのである。
 ところで、これら丸の内における戦災建物の改修ならびに疎開・戦災焼失建物跡地の新築工事は、当社にとっては終戦直後の初仕事であり、また当社が生き残るためには是非ともやらなければならない工事であった。しかし戦後の大混乱のなかで石炭、電力など重点産業関連の復興用の資材はともかく、それ以外の一般工事の主要資材はまったく手当てできない状態だった。これを救ったのが戦時中、当社が設計監理を引き受けた日本建鉄船橋工場の資材である。終戦と同時に同工場は縮小されることになり、工場内の一部木造建物の資材転用の依頼を当社が受けていた。当社は文字どおり渡りに船とこの払下げを受け、終戦直後の多くの工事にこれを利用したのであった。

終戦直後の丸の内点描
 昭和21年(1946)3月20日、丸ビルと東京駅とを結ぶ地下道に簡易ホテルがお目見えした。これは東京都内の大部分が焼野原になったため、引揚者や旅行者は仮の宿を探すのにも非常な困難を極めたので、交通公社が丸ビル地下道北側壁面を利用して蚕棚式寝室をつくり、北側をホテル、南側を公道としたものである。換気装置がない地下道の各所に設けられた小便桶の臭気が充満し、通行人は嫌悪感を抱いていたという。宿泊料は1泊10円であった。
 こうしたなか、20年5月の空襲で焼けただれ、無残な姿をさらしていた東京駅の復旧工事が完成したのは22年3月15日のことであった。資材不足の折、従来どおりの完全なかたちに復旧することは叶わず、3階建てを2階に改め、また屋根の形も丸いドームから八角形へと変わった。同じ年には八重洲側の外堀が戦災の瓦礫の捨場として埋め立てられ、翌23年11月、終戦直後の建物としては画期的といわれた2階建ての八重洲口駅舎も完成している。しかしこの新駅舎は、竣工から半年も経たない24年4月に火災により焼失してしまった。
 丸ビルの正面に石炭増産促進の大看板が取り付けられたのも、22年の春ごろのことである。これは戦後復興の重要資源たる国内産石炭の産出量が労働力不足などから年々低下していたため、この増産を盛り上げる意味で連合国総司令部の意向を受けた経済安定本部(現経済企画庁)から当社に話があったものである。当社ではこれに協力することになり、縦約8m×横約20mの大看板を丸ビル壁面に取り付けて、目標出炭量と月ごとの出来高を記入、道ゆく人々にPRしたのであった。
 さらに23年からは丸ビルの昇降機復旧工事も開始された。同ビルの客用昇降機は計11台あったが、戦時中の金属回収で南側の5台が撤去されたまま終戦を迎えた。しかし戦後、丸ビルの館内人口も急激に増え、北側に残る6台の昇降機だけでは乗客が輻輳し不便であるばかりでなく、在来の昇降機は丸ビル開館以来すでに25年も経過していた。そこでとりあえず、戦時中に撤去された南側に予算435万円で新しい昇降機を3台復活する工事を施工、この完成後に在来の昇降機を逐次新しいものと取り替えることとなった。
 しかし当時、当社は「制限会社」の制約を受けていたので、これらの工事を当社単独で決することはできなかった。英文、和文各3通の許可申請書に、資金の借入先である日本貯蓄銀行(後の協和銀行、現あさひ銀行)との借入金協定書を添え、さらには戦災復興院の承認書まで添付したうえで、持株会社整理委員会に提出しなければならなかったのである。結局この工事は、23年6月に許可され翌24年7月15日に竣工、テナントを招待して披露を行なった。
 また冬期の暖房については、接収建物にあっては当然のサービスであったが、丸ビルなどではラジエーターが撤去されたままであり、テナントは長いあいだ外套着用のままの執務を強いられていた。この復旧も昇降機以上に必要欠くべからざるものであった。当社は、工事予算7100万円で25年9月に復旧工事に着手し、翌26年1月から通気することができた。これによって、ようやく健康的かつ快適な勤務環境を整備することができ、各テナントにも戦後復興の実感を味わってもらったのである。

 

(ここで「三菱地所社史」の第7章第1節の1項目は終わり、次回は第7章第1節の2項目に続く。)

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー