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「丸の内百年のあゆみ、三菱地所社史・上巻」その1

COLUMN「丸の内百年のあゆみ、三菱地所社史・上巻」その1

VOL.24
小川 真理生さん

ここでは、「丸の内百年のあゆみ、三菱地所社史・上巻」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第24回「丸の内百年のあゆみ、三菱地所社史・上巻」その1

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 今回からは、たくさんの焼け残りのビルが接収され、あたかもリトル・アメリカのようになった丸の内の姿を見る。「丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史・上巻」の記録のうち、第7章「占領軍の進駐と戦後の混乱(昭和20年~23年)」の「第1節 敗戦と財閥解体」に、以下のようにある。

 

1.占領下の丸ノ内
戦争の終結
 太平洋戦争は昭和20年(1945)8月15日、日本政府による「ポツダム宣言」の受諾に伴う降伏というかたちで終結した。その後のわが国は26年9月の対日講和条約締結の日まで、占領時代の長い受難の道を歩むことになるのである。
 そもそも「ポツダム宣言」とは、20年7月26日、米・英・中3国代表がベルリン郊外ポツダムにおいて発表した日本に対する実質上の無条件降伏を要求する最後通牒であった(20年8月8日のソ連参戦により4カ国共同宣言となる)。しかし日本軍部の徹底抗戦の主張に押され、時の鈴木貫太郎首相は同宣言を黙殺、これがアメリカによる広島、長崎への原子爆弾投下の一因となったといわれる。

 この「ポツダム宣言」が要求している降伏の条件とは、以下の9項目である。

  1. 軍国主義に導いた戦争指導者の権力、勢力の永久除去
  2. 新秩序の建設と日本の戦争遂行能力破砕が確認されるまで日本本土を占領
  3. 日本本土を本州、北海道、九州、四国ならびに周辺諸島嶼に限定
  4. 日本軍の完全武装解除と復員
  5. 日本民族を奴隷化しないが、俘虜虐待者を含むすべての戦争犯罪人の処罰
  6. 民主主義の復活、強化
  7. 言論、宗教、思想の自由を含む基本的人権の尊重
  8. 再軍備につながるものを除き平和産業、外国貿易の認容
  9. 本宣言の条項が達成され、かつ日本国民の自由な意思に基づく平和的かつ責任ある政府が確立されたとき、連合国占領軍は直ちに撤収する

 当社では20年8月15日正午、日本政府の重大発表があるから全員丸ビル8階南側、防護団員室前のエレベーターホールに集合するようにとの指示があり、社員一同、同室に備付けのラジオを囲んで集まった。
 同日付の当社日誌には、「帝国遂ニ米英ソ中四カ国ニ対シ和ヲ求ム。一億ノ決起、奮励マタ遂ニ及バズ、悲憤極ル所ヲ知ラズ。本8月15日正午、天皇陛下ノ玉音ヲラジオニヨリ拝シ、唯々、恐懼アルノミ。今朝来、敵艦載機ノ来襲例ノ如ク頻リニアリシモ、午後0時59分、茨城地区警戒警報解除ヲ最後トシテ、防空警報モ全ク終了ス」と記されている。この放送を聞き終わった瞬間、誰一人として言葉を発する者はなく、これまでの張りつめた緊張の糸が切れ、先行きの不安を考えるとただただ茫然自失するのみであった。
 20年8月30日、連合国総司令官のダグラスマッカーサー元帥は空路厚木飛行場に到着、日本本土に第一歩を印した。それから3日後の9月2日、東京湾の米戦艦<ミズーリ号>艦上において、マッカーサーをはじめ交戦国9カ国代表と日本政府代表との間で全面降伏文書の調印が行なわれた。これにより、わが国は連合軍の占領下に置かれ戦後の混乱時代を迎えることとなったのである。

丸ノ内占領さる
 米占領軍による丸の内進駐は極めて慌ただしかった。全面降伏文書調印の日から一両日も経たないうちに、今まで静まり返っていた丸の内界隈に大勢の米兵が現われ、焼残りのビルに勝手に出入りしてしきりに建物を物色する姿が見られるようになった。連合国総司令部(GHQ)と日本政府とのパイプ役を果たす終戦連絡中央事務局(8月26日設置された外務省の外局)がすでに発足していたにもかかわらず、終戦直後のことで占領軍当局と日本政府との話合いが整っておらず、指揮命令系統が混乱していたのである。土地、建物の接収にあたっても占領軍自らが直接強権を発動し、所有者や使用者に提供を求める例が多々あったようだ。
 丸の内の空襲を免れた建物のうち、堀端に聳える第一生命館にも多数のアメリカ兵が現われた。そのうち第一騎兵師団の某司令官が同ビル内を見て回ったという知らせを聞き、かねて接収は絶対に免れないが接収されるのであれば、戦闘部隊の荒武者よりは総司令部が好ましいと思っていた第一生命の関係者をがっかりさせたというエピソードが残っている(矢野一郎『第一生命館の履歴書』、昭和54年)。しかし幸い、その後マッカーサー元帥自身の実地検分もあって、昭和20年(1945)9月10日、第一生命館には希望どおり連合国総司令部が置かれることが決定した。
 占領軍がいちはやく丸の内に進駐した背景には、次のようなことが考えられよう。すなわち、太平洋戦争中すでに日本本土の土地や建物を航空写真で偵察済みだった米軍当局が、戦後の占領政策遂行の拠点の最有力候補の一つに丸の内一帯を選んでいたのである。丸の内は真正面に堀を隔てて皇居があり、その背後に国会議事堂、さらに霞が関の官庁街、北東側には日本銀行、横浜正金銀行(現東京銀行)などを控える、まさに連合国総司令官が日本国を統治するのに最もふさわしい要衝である。
 一方、連合国総司令部は極東地域全体の軍事・行政両面の任務を担当する数千人規模の大組織であった。これらを一地域内に収容できる電気・水道・電信電話・宿泊の設備を備えた場所は丸の内以外にはなかった。それだからこそ、米軍は丸の内を敢えて爆撃の対象からはずして温存し、戦後占領政策の最重要拠点として活用しようとしたのであろう。事実、丸の内の三菱所有の建物では、たまたま仲5号館1~5号、仲5号館6、7号、仲6号館1~5号、仲6号館6,7号の4棟と、木造の機械工業会館および造船会館の2棟、計6棟が焼夷弾を受け、焼失しただけであった。
 しかし米空軍の爆撃被害は免れたものの、次に待ち受けていたのは占領軍による建物の軒並み接収という暗い混乱の時代の到来であった。当社関係建物の接収は20年9月の仲10号館8号(旧アメリカン倶楽部)から始まり、翌21年8月の仲6号館5号(戦災で焼失したが、応急復旧工事を完了していた)を最後に計16棟、延べ2万7625坪に及んだ。当時、三菱本社ならびに当社所有の丸の内の建物数は全部で48棟、延べ6万4800坪であったから、総延坪数の実に4割強、営業用建物の3分の1が連合国総司令部の指令により日本政府の管理下に置かれることになったのである。
 このほか当社関係建物では、開東閣の焼残り部分が21年1月に将校用宿舎として接収されている。また建物に限らず、鉄鋼会館の強制疎開跡(現三菱商事ビル別館敷地)などの更地も占領軍のモータープール用地として接収された。さらに当社関係以外の丸の内所在建物、たとえば東京海上ビルや郵船ビル、有楽館、明治生命館、東京会館、丸ノ内ホテル等々の著名ビルも、第一生命館や当社関係建物同様いずれも接収されたのである。
 しかし当社所有の丸ビルだけは、なんとか接収を免れることができた。事務所や商店などテナントの数が多いこと、ビルに事務所を構える弁護士はじめ各テナントが一丸となって嘆願書を作成、当社を通じて総司令部宛てに提出したことなどが功を奏したのだといわれている。
(以下は)丸の内における主要建物の接収状況を示したものである。

丸の内地区における主な接収建物一覧
●当社関係建物(接収年月順)
【建物名/接収年月/接収用途/解除年月/備考】の順に記述

  • 仲10号館8号(旧アメリカン倶楽部)/1945年9月接収
     /GHQ関東地区民政部、C級裁判所関係事務所、閉鎖機関関係事務所のため
     /49年4月解除/アメリカン倶楽部と直接契約
  • 仲8号館/45年12月接収/エコノミック・リサーチ・ビルのため
     /49年7月解除/解除後、通産省所管外国商社事務所として使用、同52年1月解除
  • 仲4号館6号、7号/それぞれ45年12月接収
     /それぞれ有楽ホテル(有楽館)従業員宿舎/6号は53年1月、7号は52年3月解除
  • 三菱本館/46年1月接収/女子軍人宿舎、郵便部隊のため/56年1月解除
  • 三菱商事ビル(本社別館)/46年1月接収/GHQ外交部、米国大使館のため
     /52年4月解除/解除後も米国大使館に賃貸。同53年12月解除
  • 東7号館別館(丸之内会館)/46年1月接収/米報道機関(プレスクラブ)宿舎のため
     /解除不詳/丸之内会館と直接契約
  • 仲12号館5号/46年2月接収/連合軍法務部のため/52年9月解除
  • 仲7号館別館(竹葉亭)/46年2月接収/東京会館従業員宿舎のため/52年1月解除
  • 三菱21号館/46年3月接収/ソ連軍宿舎のため/56年5月解除
     /ソ連軍引き上げ後、極東空軍調達部関係、戦史編集部、沖縄基地建設設計部関係、53年
     3月=3階、54年1月=4階、56年3月=1・2階解除
  • 仲15号館/46年3月接収/エデュケーション・センター、米軍調達部のため
     /56年1月解除/地下の一部は58年1月解除
  • 仲11号館5,6号/46年3月接収/軍事裁判法廷、連合軍憲兵隊、国連朝鮮復興機関のため
     /52年1月解除
  • 仲7号館/46年3月接収/女子将校、軍属宿舎(仲ホテルと改称)のため
     /48年12月解徐/解除後、通産省所管外国商社事務所として使用。同52年1月解除
  • 八重洲ビルヂング/46年4月接収/米空軍宿舎(八重洲ホテルと改称)のため
     /56年2月解除/地階金庫室と1階営業室は接収除外され、アメリカ銀行に賃貸
  • 東7号館/46年4月接収/診療所、医学総合研究所のため/56年3月解除
  • 東9号館東寄別館/46年4月接収/八重洲ホテル従業員宿舎/56年2月解除
  • 仲6号館7号/46年4月接収/有楽ホテル従業員宿舎のため/48年12月解除
  • 仲6号館5号/46年8月接収/仲ホテル従業員宿舎のため/48年12月解除
     /解除後、通産省所管外国商社事務所として使用。同52年1月解除

●社外建物(接収年月順)

  • 第一生命館/1945年9月接収/連合国総司令部のため/52年7月解除
  • 農林中央金庫/45年9月接収/連合国総司令部のため/56年2月解除
  • 明治生命館/45年9月接収/極東空軍司令部のため/56年7月解除
  • 郵船ビル/45年9月接収/極東空軍尉官宿舎のため/56年1月解除
  • 東京海上ビル(旧館)/45年9月接収/女子下士官宿舎のため/56年1月解除
     /オールド海上ホテルと改称
  • 東京海上ビル(新館)/45年9月接収/極東空軍司令部のため/56年7月解除
  • 銀行協会/45年9月接収/クラブのため/56年7月解除/バンカースクラブと改称
  • 東京中央郵便局(一部)/45年9月接収/検閲機関のため/49年12月解除
  • 帝国生命館/45年9月接収/第八軍航空隊宿舎のため/49年6月解除
  • 有楽館/45年10月接収/GHQ将校用宿舎のため/56年1月解除/有楽ホテルと改称
  • 東京会館/45年12月接収/将校宿舎、クラブのため/52年7月解除
     /アメリカンクラブ・オブ・トーキョーと改称
  • 内外ビル/46年3月接収/宿舎のため/52年12月解除/エンパイヤーハウスと改称
  • 丸ノ内ホテル/46年6月接収/英軍将校宿舎のため/51年6月解除

出所:『千代田区史』、当社取締役会議事録、大渕鉄太郎稿、各社社史ほか

 

(本稿は次回に続く)

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー