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伊勢丹百年史

COLUMN伊勢丹百年史

VOL.22
小川 真理生さん

ここでは、「伊勢丹百年史」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第22回伊勢丹百年史

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 敗戦当時、東中野に住んでいた歌手のペギー葉山(まだ国民学校6年生だった)は、新宿まで焼け野原で、伊勢丹新宿店は丸見え、夜になると3階以上に明りがついて、クリスマスケーキのように見えたとラジオで証言している。そのことがどのように、「伊勢丹百年史」には記録されているのか、それを覗いてみよう。
 では、「伊勢丹百年史」の第4章「接収下の苦闘」昭和20~28年、を引用しよう。

 

[1]終戦と接収
廃墟と混乱のなかで
■GHQ支配
 第2次大戦後のわが国は、ダグラス・マッカーサーが率いるGHQ(連合国軍最高司令官)の間接統治下におかれ、荒廃した国土と極度の物資不足にあえぎながら、再建への道を歩み出した。
 GHQは、日本各地への進駐を完了するや、矢つぎ早に非軍事化と民主化の指令を日本政府に発した。すなわち、昭和20年10月に日本政府に通告された5大改革指令(婦人解放、労働組合結成の奨励、学校教育の民主化、秘密審問司法制度の撤廃、経済機構の民主化)を基本テーゼとして、様々な施策が次々と打ち出されていった。
 初期の対日占領政策の重点は、もっぱら日本の非軍国主義化におかれたが、これら一連の諸改革は、その後の民主的な経済社会の形成と発展に大きく寄与する結果となった。そして21年11月には、国民主権、戦争放棄、基本的人権等を掲げた新憲法が公布され、翌22年5月から施行された。

■耐乏生活
 終戦を迎えたわが国の社会と経済は、壊滅状態にあった。経済安定本部資料によると、第2次大戦における国富の被害総額は、終戦当時の価格で653億円余にのぼった。その被害率は25.4%で、国富の約4分の1が失われたことになる。また、この戦争による死亡者も、軍人・軍属の戦死、行方不明者数が約186万人、一般国民のそれが約69万人で合計255万人余と推定されている。都市部を中心に250万戸の建物が焼失し、900万人を超す国民が着のに着のままで焼け出された。
 戦前(昭和9~11年)の水準を100とした場合、昭和21年の実質GNP(国民総生産)はわずか62、実質賃金水準が約30、実質消費水準が約60という数字は、当時の日本経済が落ち込んだ谷底が、いかに深いものであったかを如実に物語っている。
 加えて、20年の米作が大凶作であったため、都市部では深刻な食糧危機が市民の生活を脅かし、わずかな食糧を手に入れるため、高価な衣料品との物々交換が行なわれた。箪笥から衣料が1枚1枚消えていく生活実感のなかから「タケノコ生活」なる言葉が生まれた。
 さらに、終戦と同時に爆発的なインフレが猛威をふるい、昭和9~11年の平均を1とした場合の卸売物価指数と小売物価指数は、図(省略――それらはともに昭和28年には300台に急上昇)のような異常な上昇を示した。こうした情勢のもと、21年2月に至り日本政府は、インフレ抑制のために、抜打ち的に金融緊急措置令を公布し、即日施行した。これにより、旧円預貯金の封鎖、新円の発行、新円500円までの勤労者給与支払い等が実施された。この措置令は、政府が戦後初めて本格的に取り組んだ経済安定のための具体的施策であった。
 ついで、物価統制令や臨時物資需給調整法が施行され、これらを軸として物価統制や価格統制の立直しの具体化が進められた。
 一方、インフレは、金融封鎖により一時は沈静化するかにみえたが、半年後には再び高進の様相を呈した。政府およびGHQは、経済危機打開のための総合的企画・実施機関として、21年8月に経済安定本部を設置し、産業の基礎部分である石炭、鉄鋼を超重点とする傾斜生産方式の導入を強力に推進した。その効果が上がるにつれて、それまで縮小傾向にあった生産は拡大に転じ、緩やかなテンポではあったが日本経済の復興はようやく軌道に乗り始めた。そして、22年末ごろから統制をはずされる品目も出始め、26年には、衣料品の全面統制解除となるのである。
 こうした流れのなかで、百貨店の営業を規制してきた百貨店法(昭和12年10月施行)も、戦前の諸統制見直しの一環として22年12月19日付で廃止された。これにより日本百貨店組合は解散させられ、23年3月16日、新たに日本デパートメントストア協会が発足した。
 混乱をきわめた戦後2、3年の時期を経て、百貨店業界をはじめとする小売業界にも、こうしてようやく曙光がさし始めた。

■終戦後の新宿とヒンターランドの形成
 戦時下、たび重なる空襲や疎開により、東京都区部の人口は昭和17年当時の695万人から20年には277万人へと、半数以下に減少していた。
 22年3月に東京都は35区制から22区制への統廃合を行ない四谷、牛込、淀橋の3区を統合して新宿区が誕生した。この地区では、終戦時に建物の90%が焼失し、人口は昭和15年の39万4000人から20年11月には8万3000人までに激減していた。
 新宿東口地区でみると、新宿大通り沿いで焼け残ったのは、伊勢丹と三越・二幸・帝都座など少数のビルと、新宿二丁目あたりの木造店舗にすぎなかった。そのため、新宿駅から焼け跡越しに新宿御苑の緑の樹木が望見できたという。そして新宿大通り沿いには、バラックの露店商が無秩序に開店していた。
 21年ごろからは本格的な店舗を再建する動きも出始め、武蔵野ビアレストランや、ワシントン靴店、帝国銀行(現 三井銀行)等が次々と開業した。また、東大久保三丁目・角筈一丁目あたりは戦前は住宅地であったが、焼け野原となり、民間有志によるアミューズメントセンター建設計画が進められた。その実現は20年代後半をまたねばならなかったが、町名は歌舞伎劇場を設置する希望をこめて23年4月から歌舞伎町と改められた。
 一方、新宿西口ではバラック造りの飲食店街が出現し、新宿全体を活気づける一因となった。
 終戦時まで減少一方であった東京都区部の人口はその後しだいに増え、新区制が発足した22年には新宿区でも約15万人となった。また、新宿商圏に含まれる中野区、杉並区、世田谷区は、戦時中も都心部の人口急減にもかかわらず微減にとどまっていたが、戦後の人口増は特に顕著で、これに新宿、練馬を加えた5区で、23区総人口の4分の1強を占めるに至った。
 こうして、国鉄新宿駅、私鉄の小田急線、京王線を基点とする膨大な人口のヒンターランド(後背地)が形成される条件が熟しつつあり、その後さらに武蔵野市、三鷹市などもこのヒンターランドに加わるのである。
 戦後における東京西部のこのような発展は、やがて当社の発展にも密接にかかわってくることになる。

 

GHQによる接収
■終戦直後の状況
 終戦直後、昭和20年9月現在の在籍社員数は、女子125人を含む384人であったが、実際に店に残っていた男子社員はほとんどが中高年齢層であった。その後、軍隊からの復員が進むにつれ、若手男子社員の職場復帰も進んだ。二代丹治は復員してきた社員に対し、「敗戦で社員の気持ちも動揺しているかもしれないが、長い間軍隊で苦労した経験を生かして、伊勢丹を再建し盛り上げるため、力を貸してくれ」と言葉をかけ、暖かく迎えた。
 一方、売場には依然として販売できる商品はほとんどなかった。20年中の『朝日新聞』から当社の広告を拾ってみると、「常設 東京都日用品交換斡旋所」「御不用品の鉄兜を鍋に更生(2階)加工料 3円70銭」「御婚礼式服 貸衣装取揃へ(2階)」「10円で……1等10万円の幸運! 宝籤 4等まで副賞に純綿生地が付く」「御婚礼貸衣装、御不用衣類買入(2階)」等がみられ、商品が十分にそろえられない売場の状況がよくわかる。
 そして、終戦後1か月余を経た時点で、当社は予想だにしなかった試練に遭遇することになるのである。

■新宿店3階以上の接収
 日本に進駐した連合国軍は、終戦直後の昭和20年には40万人に達し、総司令部を東京日比谷の第一生命館に設置した。さらに東京のみならず各地で軍用施設として、百貨店、銀行、ホテル、病院、学校など立地と設備のよい建物を次々と接収していった。
 20年10月5日、当社に対しても中央終戦連絡事務局を通じ、新宿店3階以上をGHQ第64工兵基地測量大隊の使用に供するため、同月17日12時までに接収する旨の命令が伝えられた。命令書により、3階以上のフロアの改造および備品の撤去、客用と貨物用エレベーター各1台の使用、およびトラック用荷降ろし場として出入口と通路の使用が宣告され、接収日時までに決定された事項を確実に完了させなければならないという、厳しく慌ただしいものであった。
 さらに翌21年2月22日には、新たに隣接事務館の接収命令も発せられ、28日に実行された。
 当社が接収を受けた理由は、戦時中陸軍が使用していたこと、建物が宏壮華麗で戦災を免れていたこと、立地条件が良かったことなどに基づくものであった。
 被接収面積は、「接収建物調査報告」によれば本館が9379坪(3万951㎡)中5970坪(1万9701㎡)事務館が1175坪(3878㎡)中の481坪(1587㎡)で、合計6451坪(2万1288㎡)に達した(なお、接収部分の使用状況は、以下の通り。本館の屋階―将校宿舎、屋上庭園、7階―将校食堂・宿舎、娯楽室、隊長宿舎、劇場、庭園、6階―下士官食堂、地図倉庫、読書室、5階―兵員宿舎、医務室、4階―印刷機械室、作業場、3階―大隊司令部、作業場、下士官兵娯楽室・宿舎、1階―出入口、エレベーター回り通路。事務館屋階は、写真暗室、その2,3階―下士官兵クラブ)。これだけでも全体の約60%に相当したうえ、実際には共用部分や使用不能部分も生じたので、使用可能な面積はさらに減少して、わずかに3684坪(1万2157㎡)を残すのみになった。
 幸運にも戦災を免れた新宿店を砦にして伊勢丹再建に意欲を燃やしていた社員一同は、こうして一片の通達により営業の場を大きく奪われることとなった。二代丹治以下全社員の衝撃と無念さは察するに余りある。
 進駐軍接収フロアへの社員の立入りは禁止され、二代丹治が屋上庭園にある初代丹治の胸像を参拝できたのは、7年余の接収期間中、大隊長の招待によるわずかに3度ほどにすぎなかった。接収命令書には期間が明示されておらず、まさかこのような長期にわたって接収が続くとは、誰も予想しえなかったのである。
 なお、主要都市の百貨店は14社17店が接収されている(それは、次回紹介する)。このほか、接収と同様の措置を受けた店舗として三越銀座店等があり、接収面積は一時、全国の百貨店売場面積の約3割にも達した。しかし、一方では接収を免れた店舗もあり、被接収百貨店は戦後の再出発に際して大きなハンディキャップを背負うこととなった。

 

[2]戦後の営業活動
混乱期の販売努力
■物資不足下での営業
 進駐軍の接収により、売場は1,2階および地階に限定された。しかも、扱う商品はきわめて乏しかった。商品がありさえすれば何でも売れてしまうという状況で、仕入係は東奔西走して商品の確保に苦労した。日用品交換斡旋所や被服更生承り等も行なわれた。生産力がまだ復興していないため、接収で35%程度にまで削減された売場すら満たす商品が無かったのである。飛行機の風防ガラスを加工したブローチや機体のジェラルミンを利用したライター、紙のベルト等まで扱った。
 中心商品の衣料品については、昭和22年10月の衣料切符制の復活に伴い、登録販売制が実施された。百貨店など販売側としては、衣料切符の持込みに裏づけされた登録実績をいかに伸ばすかが営業努力の最大の眼目となった。実施直前の9月28日付『朝日新聞』には、「衣料品の御登録は、東京都指定優良店、新宿伊勢丹へ、衣料切符と印鑑御持参願います」という広告が掲載されている。
 この衣料切符は一般家庭だけでなく、業務用衣料として企業、特に復興優先の観点から生産会社へも割り当てられた。したがって、それらのメーカーを訪問し会社単位で割り当てられた大口の衣料切符獲得に当たるのも、担当者の重要な仕事であった。
 この衣料切符は一般家庭だけでなく、業務用衣料として企業、特に復興優先の観点から生産会社へも割り当てられた。したがって、それらのメーカーを訪問し会社単位で割り当てられた大口の衣料切符獲得に当たるのも、担当者の重要な仕事であった。
 このほか、品ぞろえの不足を補うため、売場スペースの一部と什器を貸与して行なう委託営業も幅広く展開した。21年から28年にかけて委託業者と交わした契約書によると、その範囲は染色更生、表札看板揮毫、ミシン修理、ラジオ等修理、靴修繕、時計修理、写真撮影、青写真焼付、謄写印刷、貴金属・宝石・時計の買入れ、鳥獣類の販売と多岐にわたっている。
 賃貸契約では、23年6月に百貨店としては初めて日興證券の出張所を店内に開設した。証券民主化に伴って好立地に営業拠点を確保したいとする同社の要請に、顧客誘引策の一環として応えたものであった。
 なお、戦争直後の営業を語る場合、街頭に出現した露店商などとの対比は欠かせない。戦後の統制経済下ではヤミ価格による売買が半ば公然とまかり通っていた。しかし、百貨店という立場上、ヤミ価格での販売は許されるはずはなく、販売成績の伸長と公定取引の遵守という矛盾のはざまに立って、苦々しい思いを噛みしめた担当者も少なくはなかった。

■クリーニング業の開始
 昭和20年12月1日より、地下2階に工場施設を設置し、直営のクリーニング業を開始した。厳しい商品不足の状況下にあって、新宿店フロアの効率的活用と営業拡大の一環として事業化されたものだが、その根底には、二代丹治の「ありあわせものでも、せめてクリーニングすることによって、お客様にきれいでさっぱりした衣服を着ていただきたい」という思いがあり、この衣生活に対する心情が、新事業展開への糸口となった。
 クリーニング業務は幸いにも好評で、設備も着々と増強された。23年5月11日の新聞広告には、「高級純ドライクリーニング、洋服・和服・毛皮・革製品、完全・迅速、直営工場にトリオン号完備」とある。このトリオン号とは、ドライクリーニングのために20万円で購入した装置であった。25年7月の資料にると、クリーニング工場は地下2階に52坪(172㎡)のスペースを有し、ドライクリーニング機2台、ワッシャー機大小各1台、脱水機1台、乾燥機1台、プレス機1台などの設備を据え付け、従業員は職員5人、工員9人の計14人であった。
 その後も順調に伸長を続けたので、28年5月21日付で当社から分離し、丹進株式会社として独立させることとなった。当社は中野区本町通り一丁目2番地の土地150坪(495㎡)および木造モルタル塗瓦葺建物1棟10坪(33㎡)、同20坪(66㎡)を157万5000円で買い取り、同社の本社および工場として貸与した。同社の資本金は200万円で当社全額出資であった。取締役社長には小松原邦三郎(当社監査役)が就任し、社員10人で28年6月1日から業務を開始した。
 当社は二代丹治の一人一業主義の方針から関係会社をもっていなかったが、丹進は初めての関係会社となった。その後、業容を拡大し、42年6月1日、株式会社伊勢丹クリーニングと社名を変更して現在に至っている。

■平和産業転換展と天皇陛下のご来店
 新宿店を会場として、昭和21年2月18日から東京都と東京商工会議所の主催で「民需転換工場優秀製品展示会」(平和産業転換展)が開催された。これは、戦時中の軍需品生産工場が民需品への切替えを行なって生産した生活必需品の展示会であった。
 出品された製品は、製めん機、かつおぶし削り機、製粉機等、生活に直接かかわりの深い道具や機械が中心で、参加企業も地元東京のほか、神奈川、山梨など多数の県に及んだ。
 この平和産業転換展を視察されるため、天皇陛下がご来店になることとなった。陛下は、21年元旦の詔書で「人間宣言」をされた後、同年2月19日、川崎市の工場地帯など神奈川県下を視察されたのを皮切りに、29年8月まで全国各地を訪問された。その一環として、21年2月28日には朝9時から午後3時まで東京都内の各地を視察され、その一つに当店の平和産業転換展が選ばれたものである。
 当日の模様を、翌3月1日付の『朝日新聞』は次のように報じている。

「新宿では12時10分すぎ、陛下のお姿が伊勢丹の正面から現はれた瞬間 道を埋めた群衆から“万歳”の歓声が巻き起った、面喰はれた陛下は一瞬 ハッとお立ちどまりになって、ソフトをおとりになった、堰を切った万余の群衆は口々に万歳を連呼しながらお車目がけて突進、陛下はお車からソフトをうちふられつつ歓呼にお答へになった」

 当社はもとより、百貨店への天皇陛下のご来店は、戦前戦後を通じてこの時が初めてで、当日は二代丹治のほか日本百貨店組合の幹部たちも一緒に並んで陛下をお迎えした。つい1年前まで“現人神”として仰ぎみた陛下をまのあたりにすることができ、社長以下全社員が感激を新たにしたことは想像にかたくない。
 なお、偶然のことではあるが、この日のご訪問先の一つに、当社創業の地である神田区旅籠町も選ばれた。この地が選ばれた理由は「人力を利用して焼跡整地を完了した状況」を視察いただくためであった。

■組織体制の整備
 進駐軍の店舗接収を受けた各百貨店が、いずれも大きな危機感を抱いたことはいうまでもない。一部では人員整理を行なって再建に取り組んだところもあった。しかし、当社の場合は図(省略、昭和20年500人以下から28年には1500人近くまで増)に示すようにこの時期の社員数は漸増している。これはまず、外地からの引揚者のうち復帰希望者を全員受け入れたことによる。
 このほか、22年ごろから新規採用も開始した。同年5月18日付の『朝日新聞』には、「店員募集男子店員――中学校、商業学校本年度新卒業者、女子店員――高等女学校、女子商業学校卒業者」、また11月30日には「職員募集 女子販売係30名、女子レジスター係10名、男子運搬係10名、看護婦1名」の広告が掲載されている。
 商品や店舗スペースが限られているなかで社員を増やしていったことについては、次の飛躍を期しての人材育成という狙いを秘めた経営陣の並々ならぬ意欲を読みとることができる。
 また、20年11月に行なわれた新しい組織・職制の編成にもその姿を看取することができる(組織図省略)。取扱い商品の多様化を考え、商事部のなかに商品仕入課を設け、商販分離を試み、販売面においても、担当区分を細分化して各係を設け、体制の確立を目指した。
 一方、戦後における新しい動きとして、初めて社員から昇進した取締役が誕生した。22年6月30日の第34回定時株主総会で、加藤冨久平、山本宗二の両名が役員に選任されたのである。加藤は昭和8年、山本は7年の入社で、新宿進出に当たって採用した大学生の生え抜き社員である。経営陣の一角に社員出身者が加わったことで、社員の士気は一段と高まった。

 以下、「売店を開く」の項目に続くが、接収下にあって限られた新宿店での営業を補うための努力、つまり戦災で焼失した茨城県の水戸店の新築再建や東京都立川市の売店の開設などの動きについては省略する。ここで、「伊勢丹百年史」における、主に新宿店の占領期の様子についての紹介は終わる。

 

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー