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『占領の記憶/記憶の占領 戦後沖縄・日本とアメリカ』1999 マイク・モラスキー

GREAT
BOOK占領期を知るための名著

VOL.15
『占領の記憶/記憶の占領
戦後沖縄・日本とアメリカ』1999
マイク・モラスキー

ここでは、小説家・文芸評論家の野崎六助が
過去の名著から占領期の時代背景を考察します。
占領期を知るための名著シリーズ 第15回

contents

 

『占領の記憶/記憶の占領 戦後沖縄・日本とアメリカ』1999
マイク・モラスキー

 アメリカ人研究者による占領小説論である。本書の対象作品を、著者は、次のように限定する。
 《アメリカ人占領者と占領下の民衆との間の関わりを描写した作品だけを選択し、これらの作品群を「占領文学」という言葉で表現する》
 したがって、論述の対象となる作品数は少ない。よく識られている作品もあれば、著者によって初めて問題にされる「埋もれた」作品も含まれる。文学的価値を再評価するといった意図はなく、作品はむしろ分析素材としてあつかわれる。
 明快な焦点は、女性と沖縄である。著者は、本書の理論的枠組を、フェミニズム理論とポストコロニアル理論に依拠したものと説明する。その意味でいうなら、本書は、文芸批評の鋭さよりも、理論研究の精緻さに重きをおいた内容となっている。
 ジェンダーの一方に加担したい欲求のためか、いわゆる「男流小説」(ここでは、占領期の産物にかぎられるが)への裁断は、性急で辛辣きわまりない。
 冒頭の「日本語の読者への前書き」では、男性作家による占領小説を《女性の体を媒介とする男性中心の物語構造》と一蹴する。これは唐突で少しわかりにくいが、本文イントロダクションの次の一文に対応している。
 《日本本土・沖縄ともに、男性作家たちは敗戦と占領の屈辱的経験を女性への性的暴力という形で露わにしてきた。暴力の現実を無視して強姦の象徴的様相を好む、この男性作家の偏向……》
 この観点が公平なのかどうかはさておき、偏向の後に現われ、偏向を正す方向をまさぐった(もちろん、女性作家による)小説に、著者の共感は大きくさかれている。
 第一章は、本土と沖縄を対置する構図の一歩として、小島信夫「アメリカン・スクール」と大城立裕「カクテル・パーティ」が論じられる。分析の進行は犀利であり、時にはわずらわしく感じさせるほどに精緻だ。
 「カクテル・パーティ」は、占領小説にとどまらず、沖縄文学として最も高名な作品だが、先にふれた観点からくる著者の裁断は手きびしい。
 《占領に関する多くのナラティヴと同じく、「カクテル・パーティ」は強姦をめぐって展開しながら、その行為と被害者とをテクストの周縁に追いやってしまう。強姦はもっぱら男性主人公の被害者性を仕立て上げるための裂け目であり欠如であるにすぎない。(中略)強姦は身体の次元に具体化されず、象徴的・構造的な役割へと切り詰められてしまう》
 しかし、著者はなお、この作品を最大限に評価する。その理由は、「カクテル・パーティ」という作品を特徴づける舞台劇めいた「図式性」が、沖縄の現実にあって、少しも「古びていない」ところにある。この章の末尾に、著者は、一九九五年(原著刊行の数年前)の米兵による強姦事件を報告している。
 そこから引き出されるのは、沖縄の戦後は「いまだ終わっていない」という議論だ。いずれにせよ、占領小説論は、そこから逃れられない。そのことに、読者もまた気づかざるをえないのである。
 第二章「文学に見る基地の街」は、よく知られた作品「オキナワの少年」と、無名の作品「青ざめた街」「混血児」を論じる。
 第三章「差異の暗部」、第六章「内なる占領者」は、「飼育」「人間の羊」「黒地の絵」「アメリカひじき」などの本土小説に、新川明の詩「有色人種」が対比される。

 第四章「戦後日本の表象としての売春」は、ある意味、本書の中枢をなす。著者によれば、異民族支配とセックスは、占領期におけるサイドストーリーではなく、メインストーリーなのである。
 ここで「発掘」される資料は、『女の防波堤』と『日本の貞操』。文学作品ではなく、タイトルが発信するとおりのいかがわしさに包まれた実録本だ。女性の体験記と称して男の筆者によって書かれた。むしろ、社会風俗研究の素材にふさわしい文献だが、著者の筆致が熱をおびてくるのは、むしろ、ここにいたってからだ。
 《他の多くの男性による物語と同様、女性が実際にこうむった性的蹂躙を抜け目なく流用することで、占領時代の記憶を、ジェンダー・イメージに依存した国民的アレゴリーへと構築する。娼婦たちの物語を国家の物語へとすりかえ、国家主義的視点から占領時代を再編することによって、間違いなく日本人男性も、占領軍に犯された女性たちと同じくれっきとした犠牲者として位置づけられるのである》

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 そこから、いよいよ著者の分析は、女性作家による作品に迫っていく。
 まず曽野綾子「遠来の客たち」。この文化反動(オニババ)が若き日にアピールした才女ぶりを、著者は、《アメリカ人占領者をしげしげと眺め、彼らも所詮は日本人主体と同じ風采の上がらない人間にすぎないことを発見した最初の日本の物語なのかもしれない》とする……。
 あまりに素朴かつ表層的な「読解」なので、かえって拍子抜けさせられる。男流小説を弾劾する犀利な分析視点に較べて、何という粗雑な実感であることか。もう少し掘り下げるべき(あるいは、掘り下げても何もないだろうと示唆すべき)領域ではないか。
 続いて、広池秋子「オンリー達」、中本たか子「基地の女」、平林たい子「北海道千歳の女」、と無名作品もしくは有名作家の知られざる作品が論じられる。《これらの占領文学三作品は、貧困や偏見、家父長制といった国内的状況が、女性抑圧の主要な要因であることを暴いている》。
 ——つまり、著者は論じる。占領による「民主化」は、こうした抑圧状況を根本的に革めたわけではない。だとすれば、日本女性にとって占領期は、個人的にも社会的にも、大した影響をもたらさなかった。少なくとも、男性占領小説が発した屈辱感とは、かなりかけ離れた意識を保っていたのではないか。
 このあたりが結論なのであれば、エピローグ「ポスト・ベトナム時代の占領文学」は、つけ足しのような気がしないでもない。そこでは、三枝和子『その冬の死』が主要に取り上げられ、沖縄女性占領小説として最も高名な吉田スエ子「嘉間良心中」は、短く言及されるのみだ。

 本書には、フェミニズム社会学への過度な譲歩や、それと裏腹な女性小説への卑屈なほどの肩入れなど、保留したい部分が少なからずある。とはいえ、それを脇に置かせるほど、全体の構想の明快さに説得されるところがある。日本人研究者や文学史家のだれもが、アプローチしてこなかった先進的かつ体系的な視角がここにある。
 占領小説に底流する日本人性、男性本位に防衛された社会意識、そしてどこまでも不可視な〈本土ー沖縄〉の植民地構造。それらの本質的な観点は、「外部」からもたらされるしかなかったのか。

 

『占領の記憶/記憶の占領 戦後沖縄・日本とアメリカ』1999 マイク・モラスキー

『占領の記憶/記憶の占領 戦後沖縄・日本とアメリカ』
マイク・モラスキー スズキ直子訳
青土社 二〇〇六年三月

野崎六助
プロフィール:野崎六助(のざき ろくすけ)
1947年 東京生まれ。
1960年から1978年 京都に在住。
1984年 『復員文学論』でデビュー。
1992年 『北米探偵小説論』で日本推理作家協会賞受賞。
1994年 『夕焼け探偵帖』で小説家デビュー。
1999年 小説『煉獄回廊』 
2008年 『魂と罪責 ひとつの在日朝鮮人文学論』
2014年 電子書籍kidle版『李珍宇ノート』『大藪春彦伝説』『高村薫の世界』
http://www002.upp.so-net.ne.jp/nozaki
http://atb66.blog.so-net.ne.jp/