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第一ホテル

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.13
第一ホテル

 銀座5丁目の数寄屋橋公園(現在工事中)から歩き始めて、近衛文麿の出身校でもある泰明小学校前に回り込んで、そこからJR山手線沿いの銀座コリドー通りを新橋駅方面に進んだ。しばらくして土橋手前の新幸橋のガードをくぐり、東電本社前に出る。

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 東電本社は立憲政友会本部のあったところ。その歴史を略述すると、1900年9月に伊藤博文によって結党され、新橋の赤レンガ通りを日本赤十字社や芝公園に向かうと、愛宕警察署があり、その正面に所在していた(現在の芝公園1丁目)。1919年には放火され、全焼し、23年の関東大震災後に、内幸町1丁目1番(今、東電本社のところ)に移り、5・15事件(32年)では手榴弾が投げ込まれているという。その政友会も40年に大政翼賛会への合流のため解散している。そこも占領期には、米軍下士官クラブとして使用されている。
 この前は、国会通りと呼ばれ、ガードをくぐってから、まっすぐ進むと、日比谷公園の幸門、西幸門、国会方面へと行くことができる。その幸門を右に曲がれば、帝国ホテル(その手前はかつて鹿鳴館があった)、そしてGHQが置かれた第一生命館にすぐ行くことができる。幸門のところを逆に左へ曲がれば、現在の日比谷シティ、かつてNHK東京放送会館があり、CIE(民間情報教育局)やCCD(民間検閲支隊)がいたところである。このへんがいかに軒並み接収され、米兵がいっぱい密集して活動していたかがわかろう。
 さて、新幸橋のガードをくぐってから、山手線沿いを新橋方面に向かうと、すぐ右に第一ホテルアネックスがあり、さらに進むと、第一ホテル東京にぶつかる。
 まず位置関係を示しておく。線路沿いをさらにまっすぐ進むと、外堀通りに出て、そこを渡り、さらに進むと、新橋駅前のSL広場にぶつかる。ここから一つ駅から離れた通りが芝公園などに続く「赤レンガ通り」である。
 ここからは「第一ホテル東京」について紹介しよう。1938年4月29日、都内でははじめて冷暖房完備の客室数626室の、このホテルが新橋駅前に完成した。それが、45年9月8日にGHQに接収され、「ダイイチ・ホテル」という名前で、米軍士官650人の宿舎として使われ、7階は婦人将校と看護婦にたちにあてられた。また、46年には極東国際軍事法廷の米人弁護士らがここに宿泊している。
 そこも、56年8月31日になって、接収解除となっている。そして現在の第一ホテル東京は、約40年後の93年になって、21階建て、277室に建て直されたものである。
 ところで、ここから山手線を離れる形で、日比谷通り方向、西に2,3分進むと、NHK東京放送会館に着く。そこを接収して使っていたアメリア人が第一ホテルに宿泊していたエピソードが、北村洋著『敗戦とハリウッド 占領下日本の文化再建』(名古屋大学出版会刊)に、出ている。
 アメリカ映画が戦後日本のアメリカナイゼーションに大きな役割を果したことを論じた同書で、アメリカ映画の配給会社として設立されたセントラル社の二代目代表として活動を開始したチャールズ・メイヤーについて、こう記述している。
「戦災を生き延びた新橋第一ホテルに居を構えたメイヤーは、そこから毎朝運転手付きのキャデラックに乗って出勤した。日本語に堪能で、日本人の職員とも日常的に接した(初代代表の)ベルゲルとは異なり、メイヤーは日本人の社員とはほとんど交流せず、ことあるごとに社員の首を切った。そのためか、本社の上司からの信望は厚かったものの、日本人の間では横柄でワンマンな指導者という不名誉な評判を獲得し、影で『メイヤー天皇』『セントラルのマッカーサー』などと呼ばれていた」
 次回に紹介するセントラル社のあった新橋のオフィスは、直ぐ近くである。こんな距離をキャデラックで出勤していたのかと、その尊大ぶりがつくづく理解できた。さすが、「メイヤー天皇」で呼ばれていただけのことはある。

  • 第一ホテル前から東電本社をのぞむ
    第一ホテル前から東電本社をのぞむ
  • 第一ホテル
    この第一ホテルを左に行けば外堀通り・新橋駅、
    右に行けば日比谷通り
第一ホテル。日比谷通り方面をのぞむ
第一ホテル。日比谷通り方面をのぞむ

 

(文責:編集部MAO)