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資生堂社史:資生堂と銀座のあゆみ八十五年その2

COLUMN「資生堂社史:資生堂と銀座のあゆみ八十五年 その2」

VOL.10
小川 真理生さん

ここでは、「資生堂」にまつわるコラムを紹介します。
小川 真理生さん(フリー編集者)
第10回 「資生堂社史:資生堂と銀座のあゆみ八十五年 その2」

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 前回につづき、敗戦後の資生堂について、社史より見ていこう。

「敗戦銀座
 虚脱したような日本の姿であった。敗戦という衝撃はあまりにも大きかった。齋明朝九年(六六三年)白村江の決定的敗戦も本土には及ばなかったし、文永十一年(一二七四年)の元寇も、局地数日の上陸で、終局はわが軍の捷利であった。日本史上今次戦争のように完膚なきまでに敗れ去った経験はない。それが、世界史上最大の規模でたたかい、最多の血をながし、八十年にわたって蓄積した資本を費いはたし、国土を廃墟にかえ、社稷を削ったのである。国民の放心した表情のなかに、アメリカ軍につづいて、他の国連軍の進駐がはじまった。そして八月三十日、マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。
 そのころ焼け残った銀座通り七丁目東側に、RAAの名で「新日本女性に告ぐ」と題して、このような広告が貼られた。
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。年令十八歳以上二十五歳迄。宿舎、被服、食糧全部当方支給。
 RAAとは、リクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーションの略称で、占領軍進駐に備え、政府保証のもとに設立された特殊慰安施設協会のことである。その施設の一つとして、銀座では、増築工事未完成のまま中止されていた松坂屋地下室が、オアシス・オブ・ギンザの名で進駐軍衛生所として開設された。
 それは銀座の永い歴史にとっての一大汚点である。かつて明治初年頃に信楽新道(現在の銀座八丁目東裏側)あたりに岡場所が栄えたり、鉄道開通後に街娼が横行したこともあったが、公然とこのような施設のつくられたことは、敗戦という冷酷な現実の下であるにせよ、わが国の文化文物の先端をつねに歩いてきた銀座にとって、限りなくまた堪えがたく悲しいことであった。
 銀座四丁目交叉点にアメリカ軍憲兵(MPと称した)が交通整理に立った。制服に固めた長身の、白いヘルメットと、手さばきも鮮やかな純白の手袋が、颯爽として、また近代感覚的であった。その毅然として水際たった一挙一動は、意地も気力も失って背をまるめて歩く日本人とあまりにも対蹠的であった。

 赤い林檎と青い空
 北鮮・満州方面にあった日本軍及び日本人のシベリヤ抑留をのぞいて、各外地から続々復員あるいは帰還してきた。夢寝にまで思いつづけた故国は沃野も盛り場もなく、ただ荒廃に委せられていた。家なく、食なく、衣なき故国であったが、わずかに残る林檎の木の実は,晩秋の日に映えて美しい。
  赤いりんごに唇寄せて
  だまって見てゐる青い空
  りんごはなんにも言はないけれど
  りんごの気持ちはよく分る
  りんご可愛いや 可愛いやりんご

「りんごの唄」のメロディが町々にながれた。しかし食糧事情は極度に悪化し、街々には、追いつめられた街娼と保護者なき浮浪児があふれた。
 この年十月、銀座では、銀座通聯合会によって銀座通復興建築地鎮祭が行われた。

 変貌した銀座街頭
 戦うという目標が崩れ去り、衣食住の極度に乏しいなか、進駐軍の軍政のもとに明けた昭和二十一年(一九四六年)である。すでに昨年九月以来松屋百貨店と東芝ビルが接収され、ここにアメリカ軍PXが開設されていたが、この一月さらに服部時計店が接収されてPXとなった。銀座通りにはアメリカ軍用バスが走り、街頭には軍人(GIと呼ばれた)の姿が多くなった。有楽町のガード付近に集った街娼が、一片のチョコレート、一本の煙草を求め、数寄屋橋をこえて銀座にまで出没した。浮浪児が靴ブラシをもってGIに群がるという痛々しい情景も見られた。
 そのような銀座であったが、四月には銀座復興祭が形ばかり行われた。

 統制つづく
 日々の生活は飢餓寸前である。いや、飢餓同様であった。路上に餓死者を見ない日はなかった。
  暖き光りあれど
  腹にみつ食ひものもなく
  水をのみ眼かすみて
  顔の色はなはだ青し
  買ひ出しの群れはいくつか

  畠中の道を急ぎぬ(昭和二十一年六月・朝日グラフ・玉石集)
 名詩「千曲川旅情の歌」を模しての、暗い生活詩が悲痛な声をあげていた。しかし資生堂の事業は再建されなくてはならない。それは、旧円が封鎖され、新円と変った経済事情を乗りこえて進まなくてはならなかったが、あらゆる産業に、資材・原料は戦時中にもまして乏しかった。輸送事情と電力事情はこれに拍車をかけていた。資生堂の事情も、まだ戦時さながらであった。石鹸は依然として配給制で、化粧品は原料・価格ともに厳重な統制下にあった。従って、薬品・雑貨類、それに加えて粉歯磨をもって、再建なるまでの営業が継続されなければならなかった。このような状況下、六月、香川県坂出市に吹田分工場の管理による資生堂坂出歯磨工場が開設、前橋工場とならんで「資生堂歯磨」の製造をはじめた。

 再建体制へ
 資生堂販売会社は、復員あるいは帰還する社員を迎えて、小規模ながら次々に再建された。その数は、六月末、戦火をまぬかれた四社を含めて四十五社となり、ほぼ全国に販売網を張ることができるようになった。ここにおいて七月、再建第一回販売会社支配人会議が開かれた。但し、交通事情と食糧事情が悪化しているので、東京・大阪・坂出・福岡の四ヵ所に分割開催、出席者は中食携行という措置が執られた。列車が混雑のため圧死あるいは車外転落というような困難な交通状況を冒して、各支配人は会議に参加した。
 議案は、本社の現況、商品状況、販売会社の整備、代金回収、その他であったが、不自由な諸条件を克服しての再建体制がこうして打ち出されたのである。
 このころの取扱い商品は、香水三種、クリーム一種、化粧水五種、白粉三種、紅類四種、頭髪関係六種、その他の化粧品二種、家庭薬六種、除虫粉、駆虫液、殺蛆剤、衛生綿代用紙、石鹸容器、粉歯磨、竹柄歯刷子、替刃各一種及び配給用石鹸であった。このうち化粧品類の生産は、原料・資材の関係から、恒常的なものが期待できなかったので、戦時同様、薬品・雑貨類をもって販売組織を維持しなくてはならなかったのである。
 なお支配人会議開催に先だち、六月、社内情報を相互に告知するため「資生堂ニュース」が発刊された。B五版四頁(のちに六頁あるいは八頁となる)で、当時の用紙事情から仙花紙に印刷されたが、困難な再建の途をあゆむ心を鼓舞した。

 資生堂社歌
 まだ暗い銀座であった。資生堂再建の途は嶮しかったが、平和産業として打ちのめされていた重苦しい気分から解放されたことは、大きな喜びであった。その喜びを表徴するように、七月、資生堂パーラーに店名表示のネオンサインが取りつけられた。SHISEIDO
の欧文八字は、小さくはあったが、戦後の銀座ではじめて見るネオンサインであった。
 このころ此処の路上で、NHKの街頭録音がはじめられ、集った人々の声が、マイクを通じて、民主主義国家として再出発した息吹きを伝えた。それはまた、銀座は大きな部分を焼いたが、七丁目、八丁目は健在であることを知らせた。
 十月十二日、戦時中につくられていた「資生堂社歌」が制定され、京橋公会堂で社内関係に質素な発表会が催された。土岐善麿作詞、橋本國彦作曲である。
(中略)

 再建への努力
 飢餓・インフレ・闇という敗戦国に免れがたい宿命を背景として、様々の犯罪が、時には血生臭い凶悪事件を交え、相ついで発生し、宛ら地獄絵をくりひろげる如き世相であった。職あって食なき事態もあった。社業再建に挺身する人々の日日の生活は苦難に充ちていた。経済危機突破資金、飢餓突破資金、赤字補給金等が、苦しい経営のなかから割かれた。
 しかも事業の再建はまだ遠い彼方である。総司令部通達あるいは指令により、刻下の生活事情に対処、石炭、輸送、不急品指定等に関して幾多の政府措置が執られたため、化粧品業界は甚大な制限を受けざるを得なかった。戦いが終ったと雖も、まだ日の当らぬ産業である。例を電力にとれば、二月渇水期の最悪の際には、二十日は深夜一時間、二十一日は断続的に昼夜間で五時間の送電であったほかは総べて停電、翌二十二日、翌々二十三日は終日終夜停電という状況であった。そのうえに空瓶回収・屑紙回収・硝子屑回収が操業するためにぜひ必要の手段であった。東京工場にちかい国鉄亀戸駅に資生堂回収瓶整理所まで設けられた。
 このような茨の道であったが、明るい前途を確信して再建への努力が着々すすめられた。昭和二十二年(一九四七年)四月、資生堂大阪工場が大阪市東淀川区小松北通り二丁目に開設され、東京工場とならんで化粧品と歯磨の製造がはじめられた。これにより従来の吹田分工場は廃された。また五月には、広島県賀茂郡西条町に資生堂歯磨広島工場が開設された。主として原料事情に因ったものであるが、輸送事情が悪いため各地に生産施設をもつ必要もあった。
 このころ万難を排して資生堂画廊が再開された。再開第一回は、資生堂主催の椿会日本画展で、横山大観、川合玉堂、小林古径、鏑木清方、徳岡神泉、福田平八郎、杉山寧など第一人者の近作が展観された。
 再建への努力は資金面でも意欲的に行われた。株式会社資生堂の資本金は、昭和八年三月百万円に減資されたのが、昭和十八年九月資生堂製薬株式会社合併により百弐十万円に、昭和二十年六月百五十万円に増資されたまま、戦後の悪性インフレ期に遭遇したのである。自己資本は増加されなければならない。この年三月七百五十万円に増加して九百万円に、更に十一月壱千六百万円増加して資本金弐千五百万円となった。

 食糧を突破する
 昭和二十三年(一九四八年)一月二十日、資生堂本社は、物品税滞納に関して、国税庁の査察をうけた。その事件の報道された「毎日新聞」に、一週間後、関東化粧品工業協同組合理事長松本昇名義で次のような記事が掲載された。

  最近、滞納税金が多いというので問題になっている。事業の種別によって立場なり事件など違って来るが、私ども平和産業、特に日用品を製造している者の大部分は昨年三月一日に発令になった資金融通準則の適用を受けて全く金融面から締出され、たとえ、その事業が国民大衆に無くてはならぬ歯磨のような日用品でも金融の道は完全に杜絶の現状である。化粧品、歯磨製造業者は製品に対し化粧品は売価の八割という高率の物品税を納めている。それも蔵出税という方法で、その月の末日までに出荷した製品に対し翌月末日までに現金で完納しなければならない。ところが製品の代金は全国的に販路を持つ関係から、殊に近ごろのような輸送難の時代には平均六十日経たねば回収が出来ない現状で、それを三十日以内に納税せよという処に非常に大きな無理が生れて来るのである。

 物品税滞納はひとり資生堂のみの問題ではなかったのである。この年には、銀座通りの商店のほとんどが税金滞納で軒並に差押え通知を受けるという事態も生じ、銀座八丁転落の秋として報道された。
 この査察事件は、資生堂の事業にとって危機の頂点であった。資材面も僅かながら好転してきた。従って二月には空瓶回収・屑紙回収が中止になった。また昨年十月物価庁告示をもって、クリーム・ポマード・香油・シャンプーの四品目以外の公定価格が廃止されたため、化粧品の製造・販売関係にようやく明るい期待が持てるようになった。そのような情勢を背景にして、三月、資生堂ゾートス化粧品が発売された。
 資生堂ゾートス化粧品は、いままでの資生堂化粧品がフランス調を標榜しているのに対し、戦後、物心両面すべてがアメリカナイズされた一般の好尚に応えたものである。三月「ゾートスホネアンドレモン」と「ゾートスホネアンドアルモンド」の二つの乳液が、四月「ゾートスブリリアンチン」が、五月「ゾートス粉白粉」が発売され、つづいてクリーム、紅類、その他が発売されたが、特にその意匠におけるアメリカ的感覚は、この時代の要求に適応して好評であった。
 同じ三月、石鹸はまだ配給時代であったが、「資生堂プリマックス石鹸」が試作された。
 宣伝面にあっては、ミス・シセイドウが復活、戦後の第一期生六名の養成がこの月からはじめられた。
 斯くのごとき経緯をもって、資生堂の事業は、長い暗黒時代を脱する機運に向いはじめたのである。

 販売会社の新たな段階
 臨戦体制になって以来已むを得ず薬品・雑貨類を取り扱っていたのが本来の姿にしだいに立ち戻るにともない、各資生堂販売会社の取引き額もまた増大して行った。その反面、一般経済はまだ悪性インフレーションの生長期にあった。従って販売会社の資金面が考慮されなくてはならなかった。すなわち全国四十六社によって、昭和二十三年一月から九月にかけて、合計三千七十一万三千円の増資が行われた。その結果は、販売会社自体の経営をつぎの飛躍に備えて健全化したばかりでなく、それまで資生堂本社が背負っていた金融面での負担を大幅に軽減することになった。
 なお特記したいことは、各資生堂販売会社の資本金について、従来はそれぞれの地方の問屋関係が圧倒的であったのが、戦後の諸事情から、今回の増資にあたってはその販売会社に取引き関係を結ぶ各資生堂チェインストアが積極的に協力して出資したことである。問屋の販売会社から小売店協同の販売会社への変遷こそは、資生堂販売会社の新しい時代における新しい発展段階であった。

 営団放出高級化粧品
 このころ資生堂にとって時宜を得た好運がおとずれた。それは、戦時中銅輸入の見返り物資として製造された高級化粧品で、船積み直前に終戦となったため、交易営団に残されていたのが、総司令部指令により入札で払い下げられることになったことである。資生堂としては、その化粧品に商品名と社名が明記されている関係から、若しそれが他者の手に帰すると、未だ高級化粧品が市場に出ていない時だけに販売組織に甚大な打撃を蒙ることになるので、払下げに際しては単独入札をねがった。しかし総司令部は競争入札の既定方針を崩さない。事ここに至れば社運を賭けても落札しなければならなかった。資本金を上廻る数千万円という金額で、旧交易営団に残された高級化粧品が、それを製造した資生堂に放出されたのである。余談ながらその金額があまりにも膨大なため、実は、化粧品業界からの入札はまったくなかった。当時の業界の実状から、資力はもちろん金融面で不可能であったのである。社運を賭したればこそ、資生堂は落札することができたとも言えた。
 放出高級化粧品は、各資生堂販売会社を通じて、戦後再編成されつつある資生堂チェインストアの店頭をかざり、もし大袈裟な表現が許されるならば、長いあいだ名実ともに真の意味での資生堂化粧品を望んでいた全国の女性に、久しぶりに応えることができた。
 翌六月資生堂販売会社所属のセールスガール(資生堂チェインストアの販売を援助する女子販売員)の教育を、七月同じく外務員のための講座を、復活した。この外務員講座は、後に資生堂セールスカレッジと、さらに昭和三十一年九月にはマーケッティングセミナアと改称され、講義内容も強化されて現在に及んでいる。
 同じ月、資生堂化学研究所が、東京工場敷地内に建てられた。こうして、製造・販売両面に、再建のための諸施策があいついで為された。
 十月「資生堂ニュース」を二十八号で終刊、機関誌「資生堂チェインストア」を復刊した。B五判八頁であったが、新しい時代における精神的紐帯を確認し、且つ商品知識の修得に資することになった。又、その翌月には、資生堂チェインストアスクールが復活、東京で試講された。僅かながら小売店に対しての施策も現実化されたのである。
 十二月、大阪資生堂株式会社が創立、資生堂大阪工場をその工場として製造面が強化された。それらの新しい事態は、暗雲をやぶった曙光がまさに輝きだそうとするのに似ていた。

 特別整容講座
 確実に、資生堂は、再建への歩みを踏みしめていた。製品も次々に復活製造されてきた。宣伝が必要になった。昭和二十四年(一九四九年)一月下旬から三月上旬にかけて、特別整容講座が、本年卒業する女子高校生を対象として、全国的に各高校で巡講された。それは単なる宣伝ではなく、戦争のなかに生長したためこのような雰囲気を味わえなかった女子学生に、整容の在り方を説いたものである。講座開催のすべての学校で、講義は、讃辞と感謝をもって受けとられた。その結果は、化粧品にとっての長い空白期間があったため、若い女性には時として知られ難かった資生堂化粧品の名をはっきり知らせたのである。
 講座開催の学校三百七校、女子青年団等五十六団体、聴講者総数約五万二千名、八班によって北海道から鹿児島県まで巡講された。戦後わが国における最初の企画である。
 これより毎年の行事として、特別整容講座は、全国的にいっそう盛大に開講され、資生堂化粧品に対して新しい理解者を開拓することになった。昭和三十二年には二十二班で実施、千七百校で開催、受講者約二十二万八千名を数えるに至ったが、この飛躍的な数字はそのまま資生堂現在の歩みを語るものでもある。
 資生堂の事業の恢復にともなって、四月、株式会社資生堂は資本金五千万円に増資された。資生堂チェインストアの再編成も一応の段階に到達しようとしていた。八月、新しい標識看板が制定され、資生堂チェインストアを明示することになった。翌九月には、資生堂チェインストアスクール・第一課程美容講座が、昨年の試講を基礎にして、全国に順次巡講されることになった。斯くて再建の歩みが、やがて来るべき栄光を胸に秘めながら、更に力強く踏みしめられた。
 十月、坂出及び広島両歯磨工場が閉鎖されたが、原料・輸送関係ともに工場を分散させる必要がなくなったことと、社会事情も好転して粉歯磨の時代が過ぎ去ったことからである。

三十間堀の歴史
この年、銀座は大きく変貌しようとしていた。銀座の東辺を木挽町から限っていた三十間堀が埋め立てられることになったのである。銀座を囲んでいる水の情緒の一辺が失われようとしていた。そして実際に、二月十日から埋立て工事がはじまり、三月三十一日には早くも埋立てが完了した。こうして三十間堀はその江戸時代からの由緒ある歴史を閉じることになった。
 懐えば三十間堀の歴史は旧い。江戸城の規模拡張に引きつづき慶長十七年(一六一二年)船入堀の開鑿されたとき南八町堀その他とともに開かれた。
 幕末から明治初期にかけては、ここに船宿が栄え、新橋芸妓のはじめである銀座芸妓の絃歌が水面をふるわせた。屋形船十六艘があったと幕末に記録されている。
 鉄道が開通し、道路が発達し、往時ほど船便に頼らなくてよい時代となっても、三十間堀は銀座をその東側の地から判然と劃して、しかも水の情緒があった。そればかりか実用面でも銀座の排水に役立っていた。大正十四年八月東京地方が豪雨により大浸水した際には、その水面が地上まであと三寸という危機に立って、銀座の溢水を防いだこともあったが、それもまた昔語りとなった。

 アドバルーン浮ぶ
 晩秋十一月の晴れた朝、銀座の空には美しいアドバルーンが浮揚された。既に五月に一度試揚されたが、このたびは総司令部から正式に許可されたのである。風に靡きながら揺れ動く赤と白の大きな風船は、戦禍に傷ついた銀座に、その本来の華やかさが間もなく立ち還ってくることを約束するように見えた。その明るい未来は、銀座とともに歩み歩んで行く資生堂にもまた、約束されているかに思われた」(この項、終わり)

 

 これで資生堂の社史からの引用は終わりだが、この中でNHKの「街頭録音」の話が記述されている。この様子を「NHK名作選みのがしなつかし」からでも見ることができる。以下の
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060073_00000
にある。

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プロフィール:小川 真理生(おがわ・まりお)
略歴:1949年生まれ。
汎世書房代表。日本広報学会会員。『同時代批評』同人。
企画グループ日暮会メンバー