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内幸町のNHK放送会館の跡

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.9
内幸町の
NHK放送会館の跡

 日本放送協会(NHK)が1938年から73年まで本部として使用していたNHK東京放送会館は内幸町にあった。45年の「玉音放送」はここから送出されている。その後、そこはGHQによって45年9月5日に接収されているが、現在は52年の接収全面解除を経て、「日比谷シティ」として開発されている。その傍らにひっそりと「此処にあった」ことを示す碑がある。

hidden story

 

 そこは当初、GHQから全館明け渡しを求められたが、NHKは放送設備があり明け渡せないと拒んだため、一部の接収になった。
 当時のNHK演芸部副部長の春日由三は、以下のように回顧している。
「進駐軍が来てすぐのことですが、いきなり、内幸町の放送会館に来て、明日明け渡せという。しかし、放送施設があるから、建物がきれいに明け渡しはできない。じゃあ同居しようということで、三階と五階かなんかにNHKは全部押し込まれたわけです。四階は、今まで会長以下、偉い人がゾロゾロッといた場所で、下っ端は行ったこともないような場所に全部、CIE(民間情報教育局)が入ってしまったんです。上下でしょう。ですから極端なことを言えば、箸の上げ下ろしまで指導検閲。もっと正確に言えば、検閲しているCCD(民間検閲局)というのは六階にいたんです。そして、われわれの指導に当たっているCIEのラジオブランチは四階にいました。ですからわれわれは、俗に検閲というけれども、いわゆる二重の監督を受けている格好です」
 では、放送会館の同居状況をまとめると、
1階 CIEのアメリカ文化センターとFBIS(外国放送諜報局)
2階 渉外局・英米通信社
3階 NHK
4階 CIE
5階 NHK
6階 CCDとPPB(プレス・映画・放送部)
 ここには、占領軍向けの放送をする「WVTR局」(のちにFENと改称)があった。ここから流されていた音楽、とくにジャズの与えた影響は大きかったようである。
 CIEラジオ課は、放送事業の指導・監督を行っていたが、そこに日系二世のフランク・正三・馬場がいて、「尋ね人の時間」「真相はかうだ」などに関与している。彼については、石井清司『日本の放送をつくった男―フランク馬場物語』(毎日新聞社、1998年刊)に詳しい。
 また、占領下のGHQによる検閲のメカニズムについては、『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』(山本武利著、岩波現代全書)が解き明かしている。

 この放送会館に隣接した富国生命館についても付言しておく。
 1932年の竣工当時、社名は「富国徴兵保険相互会社」であった。そこが46年6月に、米国婦人部隊(WAC)の宿舎として接収され、「パーク・ホテル」と呼ばれた。それも49年12月に解除され、社名を「富国生命保険相互会社」と改めていた同社に返還されている。

 さて、「現代風俗史年表」(河出書房新社)の1945年の項目に、「復興の声はラジオから」があり、その解説にこうある。
「GHQは民主主義を徹底させる手段としてラジオ放送の充実に力を注いだ。終戦当初は演芸番組は自粛され、ニュースだけだったが、8月24日に高村光太郎の詩の朗読や唱歌、26日には放送劇「清正の娘」等が放送され、徐々に常態に戻っていった。9月1日には放送電波管制が解除され、第二放送が三年九か月ぶりに復活し、同8日にはオールウェーブ受信機の使用が解禁になった。また、9月9日には桜井潔楽団の曲や東海林太郎の「野崎小唄」が放送され、軽音楽がラジオに復活した。<敵性音楽>として規制されていたジャズやダンス音楽も9月23日の「日米放送音楽会」に米軍第二三三吹奏隊が出演したのを皮切りに、次々と登場した。9月22日には戦後初の「解説放送」が「復活した自由」をテーマに放送開始。10月28日からは菊田一夫作の連続放送劇「山から来た男」が放送された。また、11月25日には放送討論会の前身「ラジオ座談会」(第一回のテーマは「天皇制について」)が始まった」
 このほか、この放送会館について、エピソードは尽きない。

日本放送協会_碑

日本放送協会が「此処にあった」ことを示す碑

  • 日本放送協会_碑
    「日比谷シティ」として開発されている傍らに
    ひっそりとある放送記念碑
  • 日本放送会館
    放送会館

 

(文責:編集部MAO)