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荻外荘(近衛文麿が服毒自殺したところ)

PHOTO STORY写真に隠された真実

STORY.7
荻外荘
(近衛文麿が服毒自殺したところ)

JR中央線「荻窪駅」を下車、南口から南西方向に歩いていくと、30分もしないで善福寺川(環状8号線に出る直前)にぶつかり、その川沿いをちょっと進むと、近衛文麿が1945年12月16日に自裁場所として知られる「荻外荘」の周辺に着く。今、この敷地のうち、建物のない南側部分を「荻外荘公園」(仮称)として整備が進んでいるところで、まだ建物は自由に見ることはできない。現住所は、荻窪2丁目43番地。
この屋敷を舞台とした自殺前後の様子について、工藤美代子は『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』(中公文庫)で、こう描いている。

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≪師走早朝
 昭和二十年の暦があと二週間もすれば終わるころのことである。
 師走十六日の朝まだき、ここ東京杉並の閑静な屋敷の門にあわただしい人と車の動きが見えた。日曜の早朝からこのように騒がしいことはなかったので、近隣の住人も何かただならぬ異変でも起きたに違いないと察しただろう。
 その屋敷は荻窪の南斜面に面した高台にあり、すぐ脇の曲がりくねった道に沿って木々の間からは下方に善福寺川の流れが認められる。
 武蔵野の奥地ともいえぬこの一帯は、その川の谷あいと屋敷のある高台との断層によって区分されていた。
 ちょうど六十年経った現在では、かつての広壮な屋敷はマンションや駐車場に分断され、大きく変容している。
 六十年前のこの日に起きた事件を知る人もいなくなり、今はわずかに残った石塀や赤松林だけが昔日を知るよすがとなっている。
 東京都杉並区西田町一丁目七四三番地。近衛文麿の私邸荻外荘の当時の住所表示である。
 最後の元老として名を残した西園寺公望公爵によってそう名付けられた屋敷には、六十年前のその朝、霜柱を踏みつけるようにして内外の報道各社の自動車とMPのジープが瞬く間にところ狭しと集まってきた。
 今でも姿をとどめている石畳が敷かれた門の前である。
 まず七時十五分、荻窪の医師喜多竝が邸内に呼び込まれた。八時、所轄の杉並警察署長がおっとり刀でサーベルをガチャガチャさせながらやって来た。続いて東京地検検事、浜田警察医の検死官たちも急ぎ足で駆けつけた。
 やがてジープに分乗して到着したのが、マッカーサー総司令部の将校三人と終戦連絡事務局の中村豊一公使だった。三人はジョセフ・キーナン首席検事の使いであり、米軍としての検死が目的だった。このときには午前十時になっていた。外務省の中村公使は前日の十五日午後、やはりこの家を訪ねて近衛にこういい残して帰ったばかりだった。
「明日は私がお迎えに上がり、公爵に荷物を持たせるような無様な真似はさせませんから、どうかご安心なさって巣鴨へ行ってください。必ずですよ」
「しかし、結核や條虫もあって健康のことが……」と元近衛内閣の書記官長だった富田健治が追いすがるように言うと、中村はぴしゃりとこれをさえぎった。
 以前に病んだ結核は肺にまだわずかな影を残していた。條虫とはサナダ虫のことである。
「結核にしろ條虫にしろ、巣鴨へ入ったほうがいい薬は揃っていますよ。ともかく私の任務は公爵を巣鴨へお連れするという重大なことですので、なんとしてでも明日は巣鴨へお連れしなくてはなりません」
 近衛はこれには答えなかった。ただ、出迎えはご無用にとだけ中村に返答した。
 キーナンの使者が屋敷の正門をくぐって入ると、入れ替わりに牛場友彦が出てきて、流暢な英語で外人の記者たちに対応し始めた。牛場はイギリス留学の後、長らく近衛首相の秘書官を務めてきた男だった。MPと牛場は、記者やカメラマンなどの報道陣を一歩も邸内へ入れない役目も負っていた。(中略)
 やがて、一人の男が車から降りるとあたりを見回し人気の多いのを嫌って、正面の冠木門を避けるように横についている勝手口のくぐり戸へ向かった。
 細川護貞である。細川は第三次近衛内閣時代の秘書官であり、近衛の次女・温子を娶った女婿でもあるが、その温子は不幸にも昭和十五年に若くして病死していた。
 細川は同じように駆けつけた山本有三とうなずきあうと、無言のまま門の中へ足を踏み入れた。十一時になっていた。
「細川さんはどこで知ったのですか」
「いや、ここへ来るまで知らなかったんだ。なにしろ昨晩遅くに熊本から帰ったばかりで、朝方、電話を掛けたんだが通じなくて。信じられないが、まさかやったとは……」
 細川は岳父・近衛に出頭命令が出たことまでは承知していたが、その後の経緯は熊本にいて知らなかったという。熊本はもとより細川家譜代の地元である。
 山本が手短かに説明を加えた。
「昨日の晩は遅くまで僕らもここにいて、公と話し込んでから家に帰ったんです。今朝方早く、牛場君からの電話で起こされてね」
 言いながら二人は顔を見合わせると、女たちが廊下を走り回っている中、勝手知ったる屋敷内をそのまま居間に向かった。
 居間には白い布団が敷かれており、目を閉じているこの家の主は白い着物を着て寝かされていた。金屏風が逆さまに立てられていた。ヒノキの三方が据えられ、水入れが一個載せてあり、その横には小さな盆が置かれたままになっている。盆の上に「わかもと」「エビオス」など近衛の常備薬と共に、一寸ほどの茶色の小瓶が空になって転がっていた。
 十一時三十分、人払いの後進駐軍の警備兵に守られながらものものしくやって来た米軍の検死官たちが机の抽斗、書棚などからメモ類を探し出して持ち帰った。
 米軍将校が帰ると、親族と少人数の関係者たちは再び庭に面した近衛の居室に集まってきた。中庭の前の十二畳の和室で、近衛が日ごろ寝室に使っていた部屋である。次男で東京帝大生の通隆が目を赤くしたまま立ち尽くしていた。
 ほかに、妻の千代子、ドイツから帰ったばかりの弟・秀麿、島津忠秀公爵夫人の長女・昭子、妹で大山巌公爵家に嫁いだ武子と柏夫妻、末の弟・水谷川男爵(近衛忠麿)夫婦といった親戚たちは昨夜から泊まっていた。
 山本有三は南側の廊下のガラス戸から差し込む冬の薄い陽を浴びながら、近衛が使っていたガラス張りの書棚や時計が置かれている違い棚に目をやった。近衛の息遣いがまだ残っている品々を眺めやってから、長々と横たわる近衛の冷たくなった遺体を見下ろした。
(中略……そして、山本有三が昨夜のことを反芻する場面に転換)
 十二月十五日夕刻である。
 この日、近衛は朝から荻外荘にこもったまま多くの来客を迎えていた。およそ二千坪はあろうかという冬枯れの木立の間を散策しながら、上機嫌で背広姿の二人に話しかけた。柿沼、大槻両主治医である。ともに近衛が首相在任当時からの親しい関係だった。
「とても収監に耐えられる状態でないという診断書を書きます。しばしの間入院なさって、状況を見定めてからお決めになってはいかがかと」
 柿沼昊作は東京帝大医学部博士らしい落ち着いた物腰でそう進言した。だがほんの少しだけ近衛は首をかしげると静かに断った。
「いや、行くか行かないかはもう一晩考えます。結論は明日でも遅くないでしょう」
 前に二度も痔の手術をしている大槻菊男博士は、痔のほうは完治しているが巣鴨の環境に不安をとなえた。近衛は小さく笑って結論を口に出さなかった。
医師たちは荻窪の屋敷を後にした。
 庭下駄を脱いだ近衛は三段ほどの踏み段を昇って屋敷に入った。
 応接間へまわるとすでに友人知己が集っていた。弱い冬の光がソファまでほのかに届いている。この日も大義名分はあくまでも、明日巣鴨へ入る近衛とのしばしのお別れ夕食会である。客たちと近衛は会食を始めた。
 親戚の者たちは別室や食堂で思い思いに食事を摂り、応接間へは顔を出さなかった。
 内閣書記官長だった富田健治と風見章、首相秘書官だった岸道三、牛場友彦、一高時代からの友人である山本有三と後藤隆之助。山本は作家、後藤は京大時代から特に親しくなった友人で近衛の政治ブレーン。さらに元同盟通信の松本重治、東京帝大文学部教授の児島喜久雄、かつての近衛内閣文相だった安井英二などである。
 政治臭さが感じられないで、わずかな側近と作家やジャーナリストや大学教授ばかりが最後の宴に揃っていることがいかにも近衛らしい。
 客たちの談義は何とかして近衛を入院させてしまおう、というものだったが本人がうんと言わない。たとえ医師がなんと言おうが、胸の病気は薄い影が残っていればそれだけで再発の危険が大きい。現に夕方になれば公は微熱が出てくるのだから。
 そこへ午後、外務省から中村公使がやってきて、是が非でも巣鴨へ出頭してくれと言い残して帰った。中村の付き添いはすでに断ってある。
 皆は帝大病院へ入院させる手立てを考えていたが、近衛は夕方になってさらにこうまで言った。
「巣鴨行きを猶予してもらうことは、やめにしたい」
 ひとことゆっくりだが、きっぱりと言い切った。≫

 

 結局、近衛は巣鴨に出頭せず、東京裁判で裁かれるということからも免れたわけだが、彼は一体何を守ろうとして、死を選んだのだろうか。「荻外荘公園」(仮称)のベンチにしばし腰を下ろしながら、思いをいたすには、あまりにも閑静さに包まれている。(おわり)

(文責:編集部MAO)

荻外荘

近衛文麿が服毒自裁した荻外荘