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CIE
FILMニュース映画とCIE映画

VOL.4
GHQクラブ編集部

このシリーズでは、占領期を記録したニュース映画の映像について、
一方、GHQ=支配者サイドが日本を民主化する一環として活用した
短編映画(ナトコ映画)について、考究していきます。

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「日本ニュース映画史」その4
(7)戦後復興から高度経済成長へ

 

◆1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和条約によって日本は独立を回復。新聞やラジオ放送とともにニュース映画もGHQの検閲と指導から解放された。
 この年4月に、マッカーサー元帥は占領軍総司令官の職を解任され日本を去っていた。前年の昭和25年6月に勃発した朝鮮戦争で、連合軍最高司令官を任じられたマッカーサーは原爆使用等の強硬策を主張し、トルーマン大統領と対立したためとされている。

 

◆昭和26年、日本の産業は朝鮮戦争の特需で息を吹き返し、経済復興の道を一路邁進しようとしていた。
 映画界では、松竹が木下恵介監督で初の国産カラー映画「カルメン故郷に帰る」を製作し、カラー映画時代の先鞭をつけた。また、黒澤明監督の「羅生門」がベニス映画祭でグランプリ受賞の栄誉に輝き、海外に日本映画の存在を知らしめた。
 たくましい経済復興下の世相のもとで、ニュース映画もまた、百花繚乱ともいうべき競作の時代に入った。

 

◆1952年(昭和27年)、理研映画社は日米映画社を合併して新理研映画社と改称。「理研文化ニュース」は終刊とし、新たに毎日新聞社と提携して「毎日世界ニュース」を製作した。配給は引き続き大映系の劇場だった。「毎日世界ニュース」は、その後昭和35年に「大毎ニュース」と改称した。

 

◆1953年(昭和28年)4月、プレミヤ映画社が「ムービータイムス」を創刊。「ムービータイムス」はスポーツを主体にしたニュース映画で、主に東映系の劇場で上映された。プレミヤ映画社は小規模な製作会社で、特定の新聞社との提携や配給系統はなかったようである。
 この年12月、東京有楽座と大阪南街劇場でアメリカのシネマスコープ映画「聖衣」が公開された。日本で初のシネマスコープ映画の上映だった。

 

◆1954年(昭和29年)6月、日活が劇映画の製作を再開。これにともなって、日活系の劇場に配給するため、「日活世界ニュース」を毎日新聞社と提携して製作することになった。これをうけ、毎日新聞社は「毎日映画社」を設立。「日活世界ニュース」は毎日新聞社が製作することとした。
「日活世界ニュース」は、昭和30年1月から日活系の劇場に配給された。これによって、この時点での毎日新聞社系のニュース映画は、新理研映画社が製作して大映系の劇場に配給する「毎日世界ニュース」と、毎日映画社が製作して日活系の劇場に配給する「日活世界ニュース」の二つになった。

 

◆昭和29年、「中部日本ニュース映画社」が名古屋で「中日ニュース」を創刊し中部9県下に配給を開始した。
 その後、昭和31年に親会社の中部日本新聞社が東京に進出し、「東京中日新聞(スポーツ紙)」の発行とともに、中部日本ニュース社も東京に支社を設立。全国ニュースとして関東・東北地区へ配信網を拡げるとともに、地元紙の要請を受けてタイトルを「高知新聞ニュース」「北海道新聞ニュース」「中国新聞ニュース」「新愛媛新聞ニュース」と切り替えて各地域での配給も開始した。

 

◆日本のニュース映画は、戦前の発生当初から新聞社の販売促進のための媒体として出発したのであったが、戦後の復興期にいたって、再び新聞社ごとの系列のニュース映画が出揃ったことになる。

 

◆一方、戦後復興期はテレビの時代が静かに幕を開けた時期でもあった。
 昭和28年、1月にはNHKが一日に4時間のテレビ本放送を開始。つづいて8月には日本テレビが民放初の本放送を開始した。当時、テレビの受像機は1台18万円、普及台数はまだ8000台足らずで、人々は街頭テレビに群がっていた。

 

◆テレビの登場は、家庭電化時代の始まりでもあった。
 昭和29年、電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気掃除機が「三種の神器」とよばれ、家庭生活の憧れとなったが、やがて、掃除機にかわって白黒テレビが三種の神器に加わった。
 また、この年には、第1回の全日本自動車ショーが開催され、後のマイカーブームへの扉が開かれた。

 

◆1955年(昭和30年)4月、ラジオ東京テレビ(TBS)が開局。民放では2番目のテレビ局が生まれた。また、ソニーがトランジスタを発表。真空管にかわるトランジスタの時代が幕を開けた。
 日本経済は戦後復興から脱して、「神武景気」と呼ばれるほどのかつてない好景気にわきたち、新たな成長の時代に向かって突き進んだ。

 

◆1956年(昭和31年)、経済白書は「もはや戦後ではない」と高らかに宣言した。
 この年4月には、日本住宅公団が千葉の稲毛団地で初の入居者募集を開始した。
 出版界では、新潮社が出版社としては初めての週刊誌「週刊新潮」を創刊。週刊誌ブームに火をつけた。また、石原慎太郎が小説「太陽の季節」で芥川賞を受賞し、太陽族とよばれる若い有閑世代に世間の注目が集まった。
 一方、テレビの普及をみて、評論家の大宅壮一は「一億総白痴化」と警鐘をならした。
 映画界では全国の映画館の新築ブームが起こり、東京では戦前の4倍にあたる452館の映画館が生まれた。
 12月の国連総会で日本は国連への加盟が承認され、名実ともに国際社会に復帰した。

 

◆1957年(昭和32年)4月、東映が国産初のシネマスコープ映画「鳳城の花嫁」を製作。日本映画にもシネマスコープの時代が始まった。
 ニュース映画では、6月のプロ野球オールスター戦で、「朝日ニュース」と「日活世界ニュース」がシネマスコープを臨時に採用したが、まだ定例化にはいたらなかった。
 この年の暮れには神武景気が暗転し、「なべ底不況」とよばれる不景気に陥った。

 

◆1958年(昭和33年)2月、東京有楽町の日劇でウェスタン・カーニバルが開催され、ロカビリーが若者の間に大流行した。
 5月には、テレビの契約者数が100万を突破した。
 11月には、皇太子と正田美智子さんとの婚約が発表され、ミッチーブームに国中が沸き立った。
 12月には、東京タワーが完成。本格的なテレビの時代が幕を開けた。
 一方、昭和20年代後半から活気づいていた映画界では、全国に映画館数が史上最高の7457館を数え、年間入場者数は11億2700万人に達した。一人当たり年に12回以上映画館に足を運んだことになる。
 しかし、この年をピークに、テレビの普及に反比例して入場者数は低落していった。

 

◆1959年(昭和34年)、1月にはNHK教育テレビが開局。2月には、日本教育テレビ(NET)が開局。3月にはフジテレビが開局した。
 そして4月10日、皇太子と美智子さんのご成婚の式典が華やかに挙行された。馬車による結婚パレードの沿道には53万人もの人々が押し寄せ、テレビ各社はパレードのコースに沿って移動撮影のレールを敷き、その一部始終を中継放送した。この中継放送を見るために、テレビの受信契約は直前に一挙に増え、登録台数は300万台を突破、世帯普及率は20%近くに達した。

 

◆昭和34年4月には、ソニーが世界初のトランジスタ・テレビを発売。画角8インチで値段は69,800円だった。また8月には、日産自動車がダットサン・ブルーバードを発売。庶民にも手の届くマイカー時代が始まった。
 9月26日、明治以降では最大の台風15号が上陸。後に「伊勢湾台風」とよばれるこの台風は東海地方をはじめ各地を襲い、死者5万人、被災家屋57万戸という甚大な被害をもたらした。
 景気は「なべ底不況」を脱して、神武景気を上回る「岩戸景気」に転じていた。

 

◆昭和34年は、ニュース映画が全面的にシネマスコープに移行した年である。2月には「中日ニュース」が第266号からシネマスコープに変わり、つづいて4月には、「朝日ニュース」がシネマスコープに変わった。
 そして、8月には「朝日テレビニュース社」がシネマスコープの「東映ニュース」の製作と配給を開始した。朝日テレビニュース社は、日本教育テレビ(NET)のテレビニュースを製作するため、朝日新聞社と東映が共同出資で設立した会社だった。当初、東映は「東映ニュース」の製作を日本映画新社に交渉したが、東宝の横槍で実現しなかったためである。

 

◆翌昭和35年7月には、「読売国際ニュース」がシネマスコープに移行した。同じ7月に、新理研映画社が製作する「毎日世界ニュース」もシネマスコープに移行、これを機に名称を「大毎ニュース」と改めた。
 また、同年9月からは毎日映画社の「日活世界ニュース」から「毎日ニュース」へと名称を変えた。
【以下、省略】 (この項目、終わり)

 

 

記事:GHQクラブ編集部